SSブログ

『宇沢弘文傑作論文全ファイル』を読む(1) [本]

img099.jpg
 ふつう経済学者といえば、経済活動をより活発にして、経済規模をできるだけ大きくするにはどうすればよいかを考えている人のことを思い浮かべる。しかし、世界的な経済学者として知られる宇沢弘文(1928〜2014)は、そうではなかった。経済第一の考え方が、いかに人や自然、社会をこわしているかに警鐘を鳴らし、政治や経済の横暴から人びとのくらしを守るトリデを築くための方策を示そうとした。かれの唱えた「社会的共通資本」の考え方は、まだじゅうぶんに理解されているわけではないし、実行に移されているわけでもない。しかし、その考え方は徐々に広がっている。
 サラリーマン時代、ぼく自身、宇沢弘文の名前はよく聞いて、何冊か本を買ったものの、その著作をきちんと読んでこなかった。しかし、今回「傑作論文全ファイル」なるものがでたので、がぜん読んでみる気になった。よく理解できるかどうかは、おぼつかない。例によって、何回かにわけて、すこしずつ読み進めてみたい。
 本書はA5版で420ページもある。残されていた5000万字(原稿用紙12万枚以上)におよぶ膨大な原稿から、主要な論文を選んで1冊にまとめたという。
 宇沢にはすでに刊行された大量の著作があり、11巻にわたる『著作集』も出されている。しかし、そのすべてを読むのは骨が折れる。
 その点、今回の「ファイル」は、この大経済学者の全体像をつかむうえで、最良の窓口となるだろう。
冒頭に宇沢の弟子でノーベル賞経済学者のジョセフ・スティグリッツの記念講演がおかれているが、それは別として、全体は8部にわけられている。
 それをまず列記しておこう。

  第Ⅰ部 社会的共通資本への軌跡
  第Ⅱ部 『自動車の社会的費用』を著す
  第Ⅲ部 近代経済学の限界と社会的共通資本
  第Ⅳ部 環境と社会的共通資本
  第Ⅴ部 医療と社会的共通資本
  第Ⅵ部 教育と社会的共通資本
  第Ⅶ部 農村とコモンズ
  第Ⅷ部 未来への提案、これからの経済学

 全8部が、すべて社会的共通資本の構想に流れこんでいることがわかる。また、実際、その線に沿って、編集上の工夫がなされている。
 まず第Ⅰ部を読んでみる。
 宇沢は1928年に鳥取県米子市に生まれ、家族とともに3歳で上京する。府立(のち都立)第一中学をへて、敗戦間近の1945年4月に第一高等学校にはいり、48年4月に東京大学数学科に進んだ。当初は医学部志望だったが、みずから「ヒポクラテスの基準をみたす高潔な人格をもち合わせていない」と判断して、数学科を選んだという。もともと数学が好きだった。1951年に数学科を卒業し、特別研究生として、大学院に進んだというから、数学がさっぱりのぼくなどからみれば、まさに天才である。
 ちなみに、ぼくの高校時代にも、こういう天才がいた。数学ができて、成績はいつも学年トップ。東大理学部にはいって、スタンフォード大学に留学し、戻ってきてから東大経済学部の助教授、教授になった。いまも若々しく、現役で活躍している。正直、ぼくとはできがちがう。
 それはともかくとして、宇沢によれば、敗戦後、日本の思想界をリードしていたのは日本共産党だった。宇沢もいくつかの勉強会にはいって、マルクス主義経済学を学ぶが、とても理解できなかったという。しかし、それは謙遜だろう。むしろ、マルクス経済学にどこか違和感をおぼえていたのだろう。
 宇沢はそのうち数学より経済学を勉強するようになって、自分だけでこつこつ経済学の勉強をはじめる。そのころ、ぐうぜん、電車のなかで、一高ラグビー部先輩で経済学者でもある稲田献一と会った。そして、経済学部の古谷弘と館龍一郎を紹介してもらうことになった。
 以来、宇沢はマルクス経済学とはまったく異なる経済学を学ぶようになったという。それは数理経済学で、それまで数学を学んできた宇沢にとっては、まさにうってつけの分野だった。
 宇沢は分権的経済計画に関する論文を発表する。それがアメリカの経済学者、ケネス・アローに認められ、いきなり1956年に研究助手として、スタンフォード大学に招かれることになる。スタンフォードで輝かしい業績を上げた宇沢は、1964年にシカゴ大学に教授として迎えられる。36歳のことだ。
 しかし、そのころシカゴ大学では、ミルトン・フリードマンの市場原理主義が主流となり、マネタリズムと新自由主義が経済学界を席巻していた。宇沢はその考え方に異を唱える。
 市場原理主義について、宇沢はこう書いている。

〈市場原理主義は簡単にいってしまうと、儲けることを人生最大の目的として、倫理的、社会的、人間的な営為を軽んずる生きざまを良しとする考え方である。人間として最低の考え方である。〉

 人間の価うちはどれだけ儲けるかで決まるという新自由主義の考え方に、宇沢は嫌悪をおぼえた。
 そのころ、アメリカは泥沼のヴェトナム戦争をエスカレートさせていた。アメリカ各地では、この理不尽な戦争にたいし反戦運動が巻き起こった。宇沢もまた反戦運動を支持する。だが、当局の弾圧は激しく、反戦運動にかかわった助教授たちは解雇され、多くの学生が逮捕された。正教授の宇沢は身分を保証されているため解雇を免れたが、良心の呵責を感じないわけにはいかなかった。
 そのころ東大の経済学部から帰ってこないかという誘いを受けた。宇沢は、それを受け入れる。東大での身分は当面、助教授だったが、大学紛争の吹き荒れる1968年に帰国した宇沢は、翌年、すぐに教授に昇格した。
 しかし、12年ぶりに帰国した宇沢が見たのは、はなやかな高度成長とは裏腹の現実だった。混乱と破壊が日本社会をおおっていた。
 宇沢は水俣を訪れる。そして、「水俣の地を訪れ、胎児性水俣病の患者に接したときの衝撃は、私の経済学の考え方を根本からくつがえし、人生観まで決定的に変えてしまった」という。
 公害問題に取り組むうちに、宇沢は近代経済学(新古典派理論)そのものに疑問をいだくようになる。
 近代経済学では、私有されていないものは自由財、あるいは公共財として、企業や個人が勝手に使用してよいことになっている。その考え方によれば、チッソが水俣湾を自由に汚染し、その環境を徹底的に破壊し、結果として、多くの人に言語に絶する苦しみを与えても、なんら差し支えないことになる。
 資本家や企業のそんな野放図な行動が許されていいわけがない。社会的共通資本の考え方は、そこから生まれた。
 宇沢はこう述べている。

〈社会的共通資本は、一つの国ないし社会が、自然環境と調和し、すぐれた文化的水準を維持しながら、持続的なかたちで経済的活動を営み、安定的な社会を具現化するための社会的安定装置といってもよいと思います。大気、森林、河川、湖沼、海洋、水、土壌などの自然環境は言うまでもなく、社会的共通資本の重要な構成要因です。公害問題は、産業的あるいは都市的活動によって、自然環境が汚染、破壊され、その機能が阻害され、直接、間接に人間に対して被害を与えるものです。したがって、公害を防ぐためには、産業的あるいは都市的活動に対して、きびしい規制をもうけて、自然環境という社会的共通資本を傷つけることがないようにすることが要請されます。〉

 自然環境という社会的共通資本は、いわば人類(人類だけではないが)の共同財産なのだ。それをほしいままに破壊することは許されない。ここから社会的共通資本の思想確立に向けての、宇沢の長い闘いがはじまる。

nice!(4)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0