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自動車の社会的費用──『宇沢弘文傑作論文全ファイル』を読む(2) [本]

 1974年に出版された『自動車の社会的費用』は、宇沢の代表作のひとつである。
 十数年アメリカにいて日本に帰国した宇沢は、乗用車やトラックが東京の街なかをものすごいスピードで走りぬける様子にショックを受けた。しばらくは、毎日、交通事故に遭わないかと、ひやひやしていたという。
 日本でモータリゼーションがはじまるのは1950年代後半、マイカーブームがおきるのは60年代後半からだ。1967年に日本の人口は1億人を突破し、自動車の台数も1000万台を超えた。
 だが、それにともない、人びとは大気汚染と騒音、危険に悩まされるようになる。交通事故死も1970年には年に1万6500人を超えた。
 そんなときに出版された宇沢の本は、おおきな反響を呼んだ。
「日本における自動車通行の特徴を一言でいえば、人々の市民的権利を侵害するようなかたちで自動車通行が社会的に認められ、許されているということである」と宇沢は書いている。
 自動車はひとつの商品である。その価格は需要と供給によって決まり、いったん売買が成立すれば、それでひとつの経済サイクルは完結する。ところが、実際にはそれだけではすまないのだ。
 自動車には、さまざまな社会的費用が発生する。道路の舗装も必要だし、高速道路も建設しなければならない。排ガスや騒音、さまざまな危険、歩行者の心理的負担など、社会や環境にたいするマイナス要因を考えれば、自動車のもたらしている「外部不経済」は、相当な費用になる。加えて、道路建設が都市景観や自然に与えた影響を考えれば、自動車が生みだした損害額は膨大なものとなるだろう。
 とりわけ日本では、市民の基本的権利がじゅうぶんに確保されないまま、自動車の普及が進んだために、問題がより深刻化した、と宇沢はいう。

〈日本の社会においては、自動車は欧米諸国とは比較にならないほど深刻な問題を提起している。もともと市民的自由にかんして明確な意識が形成されるまえに、きわめてはやいテンポで重化学工業化が進められ、高度経済成長がつづけられてきた。とくに自動車のもつこのような非社会的な側面に対しても、十分な社会的対応策がとられないまま、自動車の普及は諸外国にその比をみないようなはやさで実現してきたからである。〉

 宇沢は、市場経済を前提とする近代経済学の理論体系では、社会的資源や市民的自由の侵害、交通事故、都市問題、公害、環境問題といった現象を解明できないと指摘する。
 だからといって、自動車を一掃して、昔に戻るわけにはいかない。それでも、せめて自動車の社会的費用を内部化すべきだというのである。道路の建設は、市民の基本的権利を侵害するものであってはならず、必要な道路建設費と維持費は、利用する自動車が負担すべきだ、と宇沢は論じる。
 宇沢によれば、つくられる道路は、最低限、次のような条件を満たさなければならない。

〈まず、歩道と車道とが完全に分離され、並木その他の手段によって、排ガス、騒音などが歩行者に直接被害を与えないような配慮がなされている。と同時に、住宅など街路側の建物との間もまた十分な間隔がおかれ、住宅環境を破壊しないような措置が講ぜられる必要がある。〉

 しかし、安全な道路がつくられれば、それでOKというわけではない。自動車の社会的費用はそれだけにとどまらない。宇沢は「自動車は火薬とならんで、人類の発明のなかで、もっとも大きな害毒をもたらした」と断言する。
 1970年に運輸省は自動車の社会的費用を発表した。交通安全施設の整備費や、自動車事故死亡者の死亡損失額を計算したものだ。それによると、1968年の自動車関連社会費用の総額は1649億円で、1台あたり約7万円にあたるという。自動車工業会の数字は6622円ともっと低い。
 これらは道路建設費を含め、自動車にかかる社会的費用をできるだけ低く見積もろうとするものだ。自動車の保有者は、自動車税やガソリン税も払っているのだから、そのほかの費用を国や自治体が負担するのはとうぜんであり、これからもさらに自動車台数を増やし、道路とつくっていくという、国やメーカーの思わくが透けてみえる数字だった。
 これにたいし、宇沢は社会的共通資本に与えた損害自体も含めると、車には少なくとも1台あたり1年間で200万円の社会的費用がかかっているという試算を示した。車には膨大な費用がかかっている。その費用は車の所有者だけではなく、国の税金によってもまかなわれており、さらに目に見えない費用を国民一人ひとりが負担しているのだった。
 自動車ははたして人びとのくらしを豊かにしたのだろうか。自動車が高度経済成長の原動力になったことはまちがいない。だが、宇沢の目には、自動車のもたらす負の側面がはっきりとみえていた。
 自動車には大きな利便性があるが、その害毒も深刻なものがある、と宇沢は指摘する。自動車はすぐそこにある、走る凶器でもあるのだ。
 自宅の駐車場からそのまま使用できるのは、自動車の利便性のひとつである。だが、近隣の歩行者に危害を加えるおそれもある。現に自分の子どもや孫をガレージ近くでひき殺す事故もおきている。
 いつでも必要なときに利用できるのも、自動車の利便性だろう。だが、運転者は常に周囲に目を配りながら運転しなければならない。たとえば酩酊や身心不調によって、こうした緊張感が失われるときには、たちまち事故をおこす可能性が高くなる。
 早いスピードで移動し、重いものを運ぶことができるのも、自動車の利便性だろう。しかし、そうした車の機能が発揮されるためには、膨大なエネルギーと資源と道路を必要とする。
 自動車が危険性と大気汚染をもたらし、人びとの生活環境をこわしていることはじゅうぶんに認識されなければならない。また自動車通行のための道路を確保するために、広い土地と空間が割かれている。道路建設には、さまざまな破壊や摩擦、犠牲をともなう。
 自動車には多くの稀少資源が投入される。しかし、その寿命は案外、短いという致命的欠陥をもっている。廃棄された自動車がうずたかく積み上げられている郊外の光景をみるにつけ、うそ寒いものを感じる、と宇沢はいう。
 人びとの精神や身体におよぼす自動車の弊害についても指摘されている。自動車を使った犯罪も無視できない。日本は地震多発国なのに、人家のごく近くにガソリンスタンドが多くみられるのも、きわめて危険だという。
 自動車のもたらす弊害は、数え上げればきりがない。日本では人よりも車を優先するように都市が設計されてきた。ガードレールや白線、歩道橋なども車を優先してつくられている、と宇沢はいう。
 自動車の普及が、市民から公共的な交通手段(路線バスや電車、街路電車)の利便性を奪う結果をもたらした、とも指摘する。かつてはにぎやかだった各地の商店街がさびれてしまったのも、おそらく自動車の普及と関係している。もう歩いて買い物には行けなくなってしまった。
 宇沢がもっとも衝撃をおぼえたのは、十数年ぶりにアメリカから戻ってきたときにみた赤坂見附付近の光景だったという。
 こう書いている。

〈このあたりは、私が中学生の頃毎日のように通ったところであるが、その頃は、閑院宮家のうっそうとした森を中心として、平河町の方にかけて、街路樹の美しい、東京のなかでももっとも魅力的なところの一つであった。……[ところが]かつての美しい、人間的な街が完全に破壊されて、上には巨大な高速道路の構造物が私たちを威圧し、下には、騒音と排ガス、そして危険を撒き散らしながら、おびただしい数の自動車が走っている。まさに地獄としかいいようのない光景だったのである。〉

 ぼくの勤めていた会社も赤坂見附の近くにあったので、宇沢の詠嘆はわからないでもない。
 たしかに自動車は、企業に多くの利潤をもたらし、建設業者をうるおした。購入者にも利便性を与えたかもしれない。しかし、それがもたらした弊害ははかりしれないものがある。自動車中心社会から抜けだす方策を構想できないものだろうか。
 宇沢は「短期的な利潤追求こそ最高の善であるかのような錯覚にとらわれた自由放任主義の亡霊」は、いまも生きつづけているという。だが、そこからそろそろ抜けださないかぎり、新たな時代の方向性は見いだせないと示唆しているように思える。

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