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中世をめぐる考察──グレーバー『負債論』を読む(9) [本]

 古代帝国の崩壊により、戦争と鋳貨と奴隷制の結びつきは解体され、新しい国家のもとで、経済生活は宗教的権威によって規制されることになる。ユーラシア大陸で貨幣は仮想信用通貨へと回帰する。それが中世(600−1450年)という時代の特徴だった。
 著者によれば、中世は西ヨーロッパだけに存在したわけではない。また、中世は暗黒時代だったわけでもない。それは、むしろ「枢軸時代」のさまざまな恐怖から解き放たれた時代だった。
 そうした中世の諸相を、著者はインド、中国、近西(イスラーム世界)、極西(キリスト教世界)にわたって横断的に論じようとする。近東ではなく近西、西欧ではなく極西と名づけるところに、著者独自の歴史観が感じとれる。
 インドではマウリヤ朝やグプタ朝のあと、諸王国の分裂がはじまり、都市が衰退するとともに、それまでの鋳貨は姿を消していった。
 とはいえ、寺院への寄進はつづき、寺院は集まった金(きん)を商業貸し付けに回すだけではなく、それらをみずからの祭壇や聖所、祭具などの材料に用いていた。だが、インドでは寺は次第に仏教ではなく、ヒンドゥー教へと変わっていく。
 カースト制ができあがった。バラモン僧は武人カーストと手を組んで、古くからの村落を統制する。難民たちは地主カーストに仕え、地主は村を統制した。さまざまな職業がヒエラルキー的な秩序のうちに位置づけられようになる。
 こうして、金属貨幣を使わなくても運営できる秩序が生まれた。インドでは労働者人口の大部分が、地主やそれ以外の債権者の負債懲役人として働いていた、と著者は記している。
 紀元1000年ごろから、インドはイスラームの版図にはいっていく。だが、カースト制は存続する。カースト制というのは、下位が上位に永遠に借りがあるという思想の上に成りたっている。カーストの等級は永遠に固定されていた。その階層間を商品やサービスが移動するとしても、そこには交換の原理はまったく働いていない。

 舞台は中国に移る。
 中国でも220年ごろに漢王朝が滅んだあと、都市の衰退と硬貨経済の縮小がみられた。北方の遊牧民からの脅威はつづき、農民反乱もくり返されていた。その動きが、また新王朝をつくる契機となっていく。
 著者は中国を基本的に儒教的官僚国家ととらえている。その国家は農民の安定をはかることを一義としながら、市場を促進することをめざしていた。市場では、投機にもとづかない正当な商業利潤は認められていた。
 中国について、著者はこう述べている。

〈歴史のほとんどを通じて、中国は世界で最も高い生活水準を維持してきたのだ。イギリスでさえも、それに本当に追いついたのはおそらく1820年代、産業革命の時代を十分すぎてのことである。〉

 これは現在、歴史家の共通の認識になりつつある。
 著者によれば、儒教は宗教というより倫理・哲学体系なのだが、そこに中央アジアの隊商路を通して、仏教が到来する。南朝の梁(502−557)や唐(618−907)の時代に、仏教は空前のブームを巻き起こした。商人や大地主は財産を寺に寄進した。あげくのはてに、成仏を願っての焼身自殺さえ横行したという。
 著者はいう。自殺を無私無欲の贈与と考えることは、利益という観念の対極にあるようにみえる。生とははてしなき負債の重荷を負うことにほかならない。だとすれば、そこから救済されるには、はてしなく寄進をつづけるか、みずからを滅却する以外にない。
 儒教が徳性の根拠を父親に求めたのにたいし、仏教は母親からの負債を返済することを重視した。そのためにも寄進が必要になった。なかには「経済的焼身自殺」と見紛うまでのものもあった。僧院の宝物庫は膨張していった。
 だが、行きすぎた仏教ブームにたいし、この段階で、国家の介入がはじまる。僧侶を弾劾する布告がだされた。845年には、全部で4600の僧院が取り壊され、26万人もの僧と尼僧が地位を剥奪され、同時に15万の奴碑が寺から解放されたという。
 その理由は経済的なものだ。僧院が財を貯めこむことによって、経済が破綻していたのだ。「金属の価格が高騰し、鋳貨は消失し、田舎の市場は動かなくなり、……地方の民衆さえも僧院への負債にはまり込んでいた」というのが、僧院取り壊しの理由だった。
 中国の商人のあいだで、仏教はこれほどまでに流行をみせていたのだ。
 前に述べたように、中世においては、金や銀が教会や寺院に集中し、貨幣はふたたび仮想的になっていた。
 中国では青銅製の小額面貨幣が使われつづけていた。とはいえ、地域の商店主や商人たちは信用売買を多用していたようだ。勘定計算は割符棒でなされていたという。
 旅行や輸送のために約束手形も考案されていた。宋時代には紙幣も発行されるようになる。金属貨幣論者は紙幣の発行を失敗とみなすけれども、紙幣の時代の中国が繁栄していたことを忘れてはならない、と著者は述べている。

 次に著者は、西方において、この時代に勃興していたのは、イスラーム世界だったと指摘する。ビザンツ帝国と野蛮なヨーロッパの王国からなるキリスト教世界は、辺境の地と化していた。
 イスラーム世界の学者たちは「アブラハムやモーゼにはじまる啓示宗教の伝統とギリシア哲学の諸カテゴリーを調和させるというおなじ課題に取り組んでいた」。
 著者はさらにこう述べている。

〈中世のほとんどを通じ、イスラーム世界は西洋文明の中枢であっただけでない。それは西洋文明の拡張する前線であり、インドへの途をつけ、アフリカとヨーロッパに勢力を拡げ、インド洋を越えて宣教師を送り、多くの改宗者を獲得していったのだ。〉

 イスラーム的統治の特徴は、法にたいしては厳格で、政府にたいしては懐疑的なことであった。法学者であるウラマーたちは、軍と権力を背景とする政府に、一定の距離を置いていた。
 政府は戦争をおこし、領土を拡張し、多くの富を獲得した。そして、兵士に気前よく金のディナールや銀のディルハムからなる硬貨をばらまいた。イスラーム世界には奴隷も流入し、かれらは兵士となっていった。
 イスラームの法典は、信者が奴隷になること、信者から高利をとることを禁止していた。だが、商業に否定的だったわけではない。商人がまっとうな利潤をとること、銀行家が信用業務をおこなうことは、むしろ推奨されていた。
 融資については、一方が資金を準備し、他方が企業を経営するという共同経営方式が好まれた。投資者は利潤の一部を受け取った。その分配原理を左右したのは、社会の評判である。
 こうした信頼のネットワークは、イスラームの伝播に大きな役割をはたし、やがてインド洋はイスラーム世界の湖となっていく。アデンからモルッカ諸島にいたる通商ルートが確立される。マラッカは国際商業都市になった。
 イスラーム社会において、遠方への冒険をおこなう商人は、いわば模範的な存在として尊敬されていた。そのことは、『千夜一夜物語』に出てくるシンドバッドの物語をみてもわかる。
「この商人崇拝には世界初の自由市場イデオロギーという以上にふさわしい名称がない」と、著者はいささか皮肉をまじえながら述べている。実際、著者によると、アダム・スミスはイスラームの文献から大きな影響を受けたという。
 ちがいがあるとすれば、分業についても、スミスが個の利益を強調するのにたいして、イスラームの経済学者が相互扶助に力点をおいたことだ。イスラームでは、市場の目的自体、コミュニズムの拡張ととらえられていた。
 ガザーリーやトゥースィーの著書には見るべきものが多く含まれている。かれらは「貨幣が純粋に仮想的な形式において使用されることがごくあたりまえになった時代」に、「貨幣の特性──象徴、抽象的尺度、それ自体の特性をもたぬこと、恒常的な運動を維持することによってのみ保持される価値など」について論じた、と著者は高く評価している。

 最後に論じられるのが「極西」のキリスト教世界である。
 中世のヨーロッパでも、貨幣は仮想的領域に撤退していった、と著者は書いている。「人びとはみな、ローマの通貨で、そしてのちにはカロリング王朝の『想像貨幣』によって経費の計算をつづけていた」
 通貨はひんぱんに徴収され、再鋳造されていたものの「ほとんどの日常的取引は、まったく現金に依拠することなく、割符や商品券、簿記、現物取引によっておこなわれていた」。
 実際の金銀は教会に集まっていた。集権国家の消失とともに、市場は教会によって統制されることになる。
 カッパドキアの聖バシレイオス(330頃—379)やミラノの聖アンブロシウス(340頃—397)は高利貸を非難する説教をおこなった。「同胞に利子をつけて貸してはならない」というのが、かれらの主張である。
 教会は利子を禁じていた。だが、富者が貧者にほどこしをおこない、貧者が富者に感謝を示すことには反対していない。こうして「かつての負債懲役人は、次第に農奴あるいは家臣に変容していった」
 だが、利子の禁止に例外もあった。ユダヤ人はキリスト教世界から排除されていたが、諸侯はその立場を利用した。ユダヤ人は商人や職工になれなかった。唯一認められたのが、金貸しという例外的な仕事である。諸侯はユダヤ人を保護すると称しながら、戦費支払いのためにユダヤ人からカネをしぼりとった。なかにはユダヤ人を金貸しと軽侮し、民衆にユダヤ人虐殺をあおりたてる諸侯もいた。
 著者はユダヤ人にたいする誤解を解くために、こう書いている。

〈金貸しについてユダヤ人の役割を過大にみてはならない。ほとんどのユダヤ人は、この商売とはなんの関係もなかった。金貸しを商売とする者も、なんらかの現物と引き換えに穀物や布地を貸すといった典型的な脇役だった。実際にはその多くはユダヤ人でさえなかったのだ。……1100年代には、ほとんどのユダヤ人金貸しは、すでに長らく北イタリアのロンバルディア人やフランスのカオール人にとってかわられていた。〉

 中世盛期の商業革命によって、ヨーロッパでは商業的農業や都市手工業者ギルドが台頭し、それによってヨーロッパは他地域と同じ経済水準に到達した。高利は禁止されていたが、中世末期には商業や私有財産までも否定する教理さえ巻き起こった。だが、そのいっぽうで、利子や利益を正当化する考え方も生まれてくる。
 おそらく利益や利子を正当化したのは、政治情勢の混乱と戦争だ、と著者はみている。ヴェネツィアやジェノヴァを動かしていたのは、冒険商人とガレー船団である。
 中世といえば、遍歴する騎士を思い浮かべるが、こうした騎士は「まさに略奪するものを求めて流浪する暴徒」以外のなにものでもなく、かれらこそ冒険商人の原型にほかならない、と著者はいう。

〈神秘の森アルビオンを放浪し、鬼や妖精や魔女や怪獣と遭遇する孤独な遍歴の騎士というイメージは、いったいなにに由来しているのか? いまやその答えは明白であろう。端的に旅する商人たち、つまり、なんの成果の保証もなく未開地や森林への孤独な冒険に出発した男たちじしんの、昇華されロマン化された像でしかない。〉

 そして後世、リヒャルト・ワーグナーは、歌曲『パルジファル』のなかで、こうした遍歴する騎士たちが求めたのが、聖杯であったことを暗示した。その聖杯とは、けっきょくなんだったのだろう。それは、不可視で無形であるにもかかわらず無限の価値をもつマネーにほかならなかった。

「枢軸時代が唯物論的な時代だったなら、中世はなによりも超越性の時代であった」と、著者はいう。
 この時代の特徴は宗教性である。とはいえ、中国やインド、イスラーム世界とちがって、キリスト教世界は極端に暴力的であり、また不寛容であった。
 手形や割符、紙幣というように、中世の通貨は抽象的で仮想的な形態をとっていた。貨幣をシンボロン(シンボル)、すなわち象徴と呼んだのはアリストテレスである。シンボロンとはある種の暗号や護符をさしていた。
 中世にいたって、シンボルは現実に対応する、知覚可能な具体的しるしを意味するようになった。そのシンボルは高次の存在からの「絶対的で、自由で、ヒエラルキー的な贈与」でなければならなかった。
 中国においては、紙幣とは割府であり、それは皇帝、さらに究極的には天から与えられたものだった。「金や銀が神聖なる場に集中するにつれ、日常的な取引はどこでも、主要に信用を通しておこなわれるようになった」
 それとともに、負債とモラリティに関する議論が発生する。ヨーロッパとインドではヒエラルキーへの回帰がおこった。中国では天の原理がはたらき、イスラーム世界では神の意志が顕現するとされた。
 中国とイスラーム世界は、市場の繁栄した豊かな社会だったが、近代資本主義の特徴となる金融・産業システムを生むことはなかった。つまり、カネがカネを生むシステムはつくられなかったのだ。
 これにたいし、法人、ないし会社をつくりだしたのはヨーロッパである。その原型は修道院、とりわけシトー修道会だった、と著者はいう。その修道院施設は、製粉所や鍛冶屋に囲まれ、羊毛をつむぎ、それを輸出する工場をもっていた。だが、それは資本主義にはほど遠い。
 資本主義が生まれるのは、特許状を受けた冒険商人組合、すなわち会社(カンパニー)が、武装し、海外で冒険をはじめたときだ、と著者は述べている。
 そこから西洋の主導する近代がはじまるのだ。

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