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ヨーロッパ社会の変化──カーショー『地獄の淵から』を読む(9) [本]

 1914年から45年にかけてヨーロッパが自滅する30年間のあいだに、社会でどのような変化があったかを著者は考察する。その考察は、経済的・社会的変化、キリスト教会の役割、知識人の反応、そして文化産業の領域におよんでいる。
 まず経済的・社会的変化をみよう。
 ヨーロッパでは各国間の政治的対立が激しかったが、社会の発展傾向は似かよっていた、と著者はいう。
 この時期、ヨーロッパで人口変動がもっとも著しかったのは東欧である。殺戮や強制移住によって、人口が激変している。スターリンの農業集団化とドイツの侵攻というダブルパンチで、東欧で死亡や逃亡、強制移住に追いこまれた人びとの数は数千万人にのぼる。
 にもかかわらず、ヨーロッパでは全体でみれば、人口は増加した。1913年に5億だった人口は、1950年には6億に増えた。その原因はおもに死亡率の低下である。保健衛生の向上、緩やかに上昇する実質所得、質のよい食事が死亡率の低下と平均寿命の増加をもたらした。感染症への予防や治療の技術は格段と進歩した。いっぽう出生率は避妊と家族計画の普及によって低下した。
 農業人口は減った。1910年には人口の55パーセントだったのに、1950年には40パーセントになっている。工業化の進展につれて、人口は農村部から都市部に移動した。
 戦争が経済発展を中断させたことはまちがいない。にもかかわらず、戦争が技術進歩を刺激し、機械化を含む効率的な生産手法を開発したことも事実である。無線放送、レーダー、合成繊維、電子計算機などは戦時の発明である。ロケットやミサイルもそうだ。核技術もそうだといえるだろう。
 いっぽう戦争は国家による経済管理の手法を発展させた。国家は、租税や利率、インフレの抑制、食料供給、国債発行、住宅・道路建設などに取り組まねばならなかった。こうした国家による経済管理は、復興期においても必要になってくる。
 国家の役割への期待は、完全雇用や社会福祉、医療などの社会政策にも向けられるようになった。しかし、それが本格化するのは第2次世界大戦後である。
 20世紀前半でも女性の権利は徐々に拡大していた。イギリスでは1918年に、フランスでは1944年に女性に投票権が与えられた。しかし、家庭でも職場でも女性の地位はまだ低く、教育面でも不利な立場に置かれていた。
 ソ連では革命により社会的大変動が起き、地主の財産は没収され、土地は再配分された。イギリスでは貴族の生活様式はおおむね消滅するが、それでもその地位が失われることはなかった。フランスでは政治・経済エリートにいくぶんの変化があったものの、地方レベルではエリートはその地位を保った。それはドイツでもほぼ同じだった。
「全体として見れば、政界・経済界のエリートは20世紀の前半、自己再生する傾向が続いた」と記している。庶民がエリートになるのは困難だった。それが変わるのは20世紀後半になってからである。
 第2次世界大戦が終わるまでは、貧困の連鎖が世の中をおおっている。労働者階級が中産階級に上昇する流動性はほとんどなかった。それでもサービス部門が拡大するにつれ、事務や管理業務をまかされる労働者も増えつつあった。
 この時期、もっとも悲惨な目にあったのは、とりわけウクライナ、ベラルーシ、ポーランドなど東欧からソ連にいたる地域である。これらの地域はドイツ軍、ソ連軍双方によって痛めつけられた。
 ソ連では戦争に勝利したことによってスターリン体制が正当化され、国民はますます警察国家の監視下におかれることになった。
 第2次世界大戦により、世界の貿易に占めるヨーロッパのシェアは減少し、アメリカが世界経済の中心に浮上した。アメリカが1941年に制定した武器貸与法により、連合国は戦争を優位に進めることができるようになった。アメリカの経済的優位は、戦後経済の制度的枠組みを決めるさいにも決定的となり、ドルを基軸とするブレトンウッズ体制がつくられることになる。
 戦後経済で主流となったのは、自由貿易と国家管理による混合経済、経済自由主義と社会民主主義の混合である。この混合経済が戦後にかつてない繁栄をもたらした。だが、1945年の廃墟のなかでは、そうした繁栄がやってくるとは、だれも予想しなかった。
 20世紀前半においても、ヨーロッパではキリスト教が人びとのあいだで圧倒的な影響力をもっていた。戦争の時代は、ナショナリズムがキリスト教と接合した。教会はボリシェヴィズムとの戦いを重視していた。
 教会はかならずしも反民主主義的だったわけではない。だが、ヒトラーを支持しつづけた教会もある。
 イタリアではラテラノ条約でヴァティカン市国が誕生すると、法王庁はファシズム支配を容認するようになった。長年、第三共和制に敵意を示していたフランスのカトリック教会はヴィシー政権を歓迎した。カトリック教会は、スペインではフランコ政権のイデオロギー的支柱となった。ドイツでもカトリック教会は最初、ヒトラーを警戒していたが、ヒトラーが首相になると、たちまち彼を支持する。ユダヤ人のポグロムにたいしても批判を加えていない。ローマ法王庁もおなじだった。
 クロアチアでもスロヴァキアでもハンガリーでも、キリスト教会は人種政策と反ユダヤ政策を黙認していた。これにたいし、ポーランドではカトリック聖職者が危険をおかして、数千人のユダヤ人に救いの手を延べた。オランダでもユダヤ人の追放にたいして、教会から抗議の声があがった。だが、抗議の声をあげるのがせいいっぱいだった。
 フランスの聖職者や修道院のなかには、ユダヤ人の子どもをかくまおうとする動きもあったが、たいていは傍観の立場をとった。法王のピウス12世は、ローマのユダヤ人を救うために、修道院に約5000人のユダヤ人をかくまった。だが、ジェノサイドにたいし、おおやけに非難したわけではなく、ほぼ沈黙する態度に終始していた。
 それでも、戦時中、カトリック教会は信仰復興の気配すら経験する。教会は栄え、人気を博した。衰弱の傾向をたどったプロテスタント教会でも、信仰が放棄されることはなかった。
 危機の時代にあって、ドイツでは、多くのユダヤ人知識人が国外移住を強いられた。
 知識人のあいだでは、ブルジョア社会にたいする幻滅が広がっていた。彼らは一般に左翼の立場をとったが、右翼ファシストに流れる知識人もいた。社会民主主義に目を向ける知識人はほとんどいなかった、と著者はいう。
 マルクス主義に傾倒する知識人が多かった。イタリアのアントニオ・グラムシ、ハンガリーのジェルジ・ルカーチ、フランスのロマン・ロラン、ドイツのベルトルト・ブレヒト、イギリスのジョージ・オーウェル、ハンガリー人のアーサー・ケストラーなどもそうである。彼らはナチズムを嫌悪していた。
 ソ連のプロパガンダに目をくらまされた知識人もいる。たとえばシドニーとベアトリスのウェッブ夫妻など。いっぽうバートランド・ラッセルやアンドレ・ジイドは実際にロシアを訪れ、その体制に嫌悪感をいだいた。ケストラーはウクライナの強制集団化と飢饉を見て、ソ連に幻滅し、共産主義と絶縁した。
 知識人のなかには少数ながらファシズムに引かれた人もいる。たとえばイタリアのフィリッポ・マテオッティ、ドイツのゴットフリート・ペン、それから批評家のエズラ・パウンド、フランスのピエール・ドゥリュ・ラ・ロッシェルなど。ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガー、法学者のカール・シュミットもナチズムに傾倒していた。
 哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは政治から一線を画していた。経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、共産主義、ファシズムのいずれをも嫌っていた。小説家のイヴリン・ウォーは政治にはまったく関心がなかった。
 もっとも強力な反ファシズム知識人として知られるのは、ドイツから亡命したマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノである。
 ジョージ・オーウェルは小説『動物農場』と『1984年』でディスユートピアをえがき、スターリニズムの現実をあばいた。
 ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』で、ナチズムとスターリニズムという根源的悪のもたらす文明の崩壊をえがいた。
 しかし、知識人の苦しい試みに関心をもつ大衆はほとんどいなかった、と著者はいう。宗教も影響力を失いつつあった。教会はからっぽになった。その代わり、バーやサッカー場、ダンスホール、映画館には人があふれた。
 人びとが欲したのは娯楽だった。1920年代には娯楽産業はまださほど発展していない。しかし、ラジオと蓄音機が大量生産されると、人びとは自宅にいながら楽しみをみつけることができるようになった。
 娯楽の発信地はアメリカだった。とりわけポピュラー音楽と映画が人びとをひきつけていた。音楽とラジオは切り離せない関係にあった。スーパースターの第一号はビング・クロスビーで、フランク・シナトラがそれにつづく。ヨーロッパでは1930年代にエディット・ピアフがスター街道を歩きはじめ、マレーネ・ディートリヒの歌う英語版の「リリー・マルレーン」は連合国の兵士のあいだで大ヒットした。
 黒人ミュージシャンはアメリカではまだ差別を受けていた。ルイ・アームストロングが最初に喝采を浴びたのはヨーロッパにおいてである。ジャズの王様、デューク・エリントンはヨーロッパ巡業で人気を獲得した。ユダヤ人でロシアから逃げてきた父親をもつベニー・グッドマンは、スウィングの王様となった。だが、ナチスはジャズを嫌い、ニグロ音楽とけなしていた。また多くのユダヤ人音楽家がナチスのために命を落としている。
 1920年代から映画は観客を引きつけていた。しかし、映画がサイレントからトーキーになると、映画産業はいよいよ隆盛を迎える。1940年代の最盛期には、ハリウッドは年間400本の映画を制作していた。ディズニーのミッキーマウスとドナルドダックは映画を通じてヨーロッパでも知られるようになった。ヒトラーはディズニー映画の大ファンだったという。
 ドイツではマレーネ・ディートリヒ主演の『嘆きの天使』や、レニ・リーフェンシュタール監督のプロバガンダ映画『オリンピア』などが製作された。イタリアではムッソリーニがローマ郊外にチネチッタ(映画村)をつくった。
 映画が流行しはじめると、それまでの芝居小屋は映画館に衣替えした。映画からはジョン・ウェイン、ハンフリー・ボガート、ローレン・バコールなどの大スターが生まれた。クラーク・ゲーブルは『風と共に去りぬ』(1937年)で、一躍スターになった。
 しかし、こうした華やかな消費文化が隆盛するなか、ヨーロッパは破局と自滅への道を歩んでいたのである。

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