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第2次世界大戦とジェノサイド──カーショー『地獄の淵から』を読む(8) [本]

 第2次世界大戦は黙示録的なスケールの戦争だった、と著者はいう。戦争にからむヨーロッパ(ソ連を含む)での死者は4000万人を超えた。
 アジア・太平洋地域を含めると、第2次世界大戦の死者は5000万〜8000万人といわれる。もっとも死者が多いのはソ連の推定2100万〜2800万人(著者は2500万人としている)。ついで、中国の推定1000万〜2000万人である。ソ連の数字には、ロシア西部、ベラルーシ、ウクライナなどでの死者の数が含まれている。ポーランドの死者は600万人。ドイツは700万人。
 いっぽうイギリスは45万人、フランスは55万人と第1次世界大戦より死者数は少ない。日本は260万〜310万人。アメリカは42万人弱だった。戦場になった地域ほど死者数が多いのはいうまでもない。民間人の死亡率が高かった。第2次世界大戦の核心にはジェノサイドがある、と著者はいう。
 ヨーロッパの大戦は、3つの局面に分けることができる。
 第1局面は1939年9月から1941年6月にかけてである。戦線はポーランドからバルト3国、スカンディナヴィア諸国、西ヨーロッパ、バルカン、北アフリカへ拡大した。
 ポーランドはドイツとソ連によって分割された。バルト3国はソ連に占領された。フィンランドは赤軍の攻勢をしのいだものの、ソ連に一部領土を割譲せざるをえなかった。
 1940年春、ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ルクセンブルクを制圧。6月にはフランスが降伏した。41年春、ユーゴスラヴィアとギリシアもドイツに屈した。いっぽう、イギリスはチャーチル首相のもと、ドイツ、イタリアと戦いつづけることを宣言した。
 戦争の第2局面は1941年6月から1944年6月にかけてである。
 1941年6月22日、ドイツ軍はソ連に侵攻を開始する。ヒトラーはあせっていた。アメリカがイギリス側に立って参戦するまでに、ソ連の資源を確保し、大陸の制覇を成し遂げねばならない。
 だが、ヒトラーの「バルバロッサ作戦」は冬前に完了しそうになかった。ウクライナは手に入れたが、カフカス油田までは到達せず、レニングラードを手に入れるのも難しかった。ドイツ軍がモスクワに接近するにつれ、スターリンは首都を放棄しそうになるが、ようやくもちこたえる。そして、1941年12月5日なって、反撃に転じた。
 12月7日、日本が真珠湾を攻撃し、戦争は世界規模に拡大した。ヒトラーは日本がアメリカを釘付けにすることを期待していたが、それは過大評価だった。1942年6月のミッドウェー海戦で、日本の優位は限界に達する。
 ドイツの支配権拡大にもかげりがみえてきた。潜水艦Uボートの破壊力は、エニグマ暗号機の開発によって失われようとしていた。
 1942年10月から11月にかけ、北アフリカではアラメインの戦いで、ドイツの前進がはばまれる。ソ連にたいする第2次大攻勢でも、スターリングラードで大敗を喫していた。
 連合国の指導者は勝利を確信するようになる。1943年1月、ルーズヴェルトとチャーチルはカサブランカで会談し、枢軸諸国を無条件降伏に追いこむことを確認した。
 北アフリカで勝利した連合国軍は1943年7月、シチリア島に上陸した。9月にはイタリアと連合国が休戦協定を結ぶが、これにたいしドイツ軍はイタリアの大半を占領し、ふたたび戦闘がはじまる。
 1942年5月からはじまったイギリス空軍によるドイツの都市への無差別空襲は、翌年さらに勢いを増していた。とりわけ1943年7月末のハンブルク空襲はすさまじかった。
 1943年7月、ドイツ軍は東部戦線で最後の大攻勢をかけた。だが、1週間とつづかない。イタリアに兵力を回さなければならなかった。11月にはソ連軍がキエフを奪回した。
 第3局面は1944年6月からドイツ敗戦までである。
 6月6日、前年11月のテヘラン会談での合意にもとづいて、連合国軍はノルマンディー上陸作戦を敢行した。ソ連軍は、その2週間後、バグラチオン作戦にもとづいて、大規模な突破作戦を開始する。
 ドイツの空襲では市民の犠牲は膨大な数にのぼった。1945年3月のドレスデン空襲では民間人の死者は2万5000人を数えた(同じ3月の東京大空襲の死者は8万人以上である)。
 ドイツ軍は最後の最後まで戦った。しかし、敗北は時間の問題だった。東部戦線が崩壊すると、ルーマニアとブルガリアはソ連軍に占領された。ワルシャワは1944年8月の蜂起後、ドイツ軍によって破壊されていたが、1945年1月にはソ連軍が掌握する。ハンガリーも3月にソ連軍支配下にはいった。
 ソ連軍は4月16日にベルリンにはいり、25日にエルベ川で西からやってきたアメリカ軍部隊と邂逅した。ベルリンでの戦闘は5月2日に終了。その2日前、ヒトラーは官邸の地下壕で自殺していた。ドイツ軍が完全に降伏したのは5月8日のことである。

 第2次世界大戦では、とりわけ東部で、一般市民にたいするテロと殺戮がくり広げられた。ユダヤ人がジェノサイドの対象となった。ドイツの征服地域ではユダヤ人の「浄化」は自明のこととみなされていた。
 ドイツ軍に囚われたソ連の戦争捕虜もあわれだった。570万人のうち330万人が飢餓ないし病気で亡くなっている。
 当初、ドイツ軍が占領したポーランドでは、ポーランド人は下等人間として扱われ、気まぐれに投獄、処刑された。カトリック教会は閉鎖され、聖職者は投獄ないし殺害された。
 いっぽうソ連に占領された東部ポーランドでは、土地が集団化され、地主は強制退去させられた。銀行は国有化され、貯蓄は没収された。スターリンの命令により、ポーランド人のエリート2万人が殺害された。そのなかにはスモレンスク近郊のカティンの森で殺害された1万5000人のポーランド軍将校が含まれている。
 そのあとも10万人単位で逮捕と強制労働、強制移住、処刑がつづく。ソ連軍はユダヤ人にたいしても容赦なかった。多くのユダヤ人が逮捕され、財産を奪われ、追放された。
 1941年4月にドイツはユーゴスラヴィアを占領し、新国家クロアチアをつくりあげた。クロアチアはファシストの「ウスタシャ」が支配する国家だった。ウスタシャは総人口630万人の半分にあたる非クロアチア人を「浄化」(改宗と追放、殺害)するのに躍起となった。とりわけ標的となったのが、セルビア人とユダヤ人、それにロマ(ジプシー)である。ウスタシャは1943年までに40万人を殺害している。
 1941年夏のドイツによるバルバロッサ作戦では、ソ連軍兵士は獣とみなされただけではなく、一般市民も攻撃の対象とされた。ソ連のユダヤ人殺害も当初から織りこまれていた。ソ連に占領されたバルト3国は、当初ナチス・ドイツを歓迎し、治安警察と群衆がポグロムで手当たり次第ユダヤ人を殺害した。
 ウクライナでもソ連にたいする憎しみは深かった。ドイツ軍は当初、解放軍とみられたが、ヒトラーは「無政府主義的でアジア的な」ウクライナ人をウクライナから排除したいと思っていた。
 ドイツによる弾圧や徴集、強制送致が強まると、パルチザンが活動するようになる。ドイツ当局の取り締まりもさらに厳しくなった。ウクライナでもユダヤ人は大量虐殺された。
 1942年1月の時点で、ドイツおよびその占領地域で殺害されたユダヤ人はすでに550万人にのぼっていた。その背後には、「工業化された集団絶滅システム」があった、と著者はいう。
 当初、ヒトラーはヨーロッパのユダヤ人をすべてロシアに追放するという計画をもっていた。だが、それがうまく行きそうもないとわかると、「ユダヤ人問題の最終解決」のために、ユダヤ人をソビボルやトレブリンカといったポーランドの殺害場所に移動させる計画(ラインハルト作戦)を立てた。
 ここを「収容所」と呼ぶのはまちがいだ、と著者はいう。なぜなら、ユダヤ人は到着後、数時間以内に殺害されたからである。1942年には、こうした場所で270万人が殺害されている。
 1943年、44年の殺害場所は主にアウシュヴィッツに移った。アウシュヴィッツではユダヤ人は奴隷労働をさせられたあげく110万人が殺害された。ヨーロッパ全土からユダヤ人が集められていた。ビルケナウやマイダネクなど、ほかにも死の強制収容所は各地にいくつも存在した。
 ドイツ軍兵士のなかにもユダヤ人への蛮行に逆らった者もいる。だが、それは例外だった。ほとんどのドイツ軍兵士は、ドイツ人の人種的優越にもとづく「新秩序」の建設を求めて戦っていた。
 ソ連赤軍の兵士の場合は、戦う以外に選択肢はなかった。戦わなければ殺されたからである。あえていえば祖国防衛の愛国主義が彼らをようやく支えていた。
 イギリスはドイツに占領されることがなかった。チャーチルのいうように大英帝国の偉大さを守るために戦ったイギリス軍兵士はさほどいない。よりよい未来を切り開くという希望が、わずかに戦闘の意欲をかきたてていた、と著者はいう。
 イギリスに拠点をおく亡命ポーランド政府の目的ははっきりしていた。ドイツの占領から祖国を解放することである。加えて、亡命ポーランド政府にとっては、祖国がソ連の支配下にはいらないようにすることが重要だった。だが、その希望はワルシャワ蜂起の鎮圧とヤルタ会談によって潰えることになる。
 ほとんど無名の存在だったシャルル・ドゴールはイギリスの後押しで、ロンドンを拠点とする自由フランスの指導者となった。自由フランスが祖国フランスで注目されるようになるのは、ドイツが不利となり、ヴィシー政権が支持を失ってからである。1943年にドゴールは自由フランスの本部をアルジェに移し、国内のレジスタンス運動を支持することで名声を獲得した。
 イギリスは参戦国のなかでは比較的幸運だった。とはいえ、ドイツの空爆によって、ロンドンをはじめとする都市では、多くの家屋が破壊され、30万近い人びとが死傷した。食料や物不足による困窮は深刻だった。夫の出征中の育児や家事、長時間労働の重みが主婦の肩にのしかかった。しかし、市民のあいだでは、この戦争は正義だという基本的な認識があり、国民の結束はゆるがなかった。
 ソ連では厳しい強制と抑圧をともなう国民総動員体制がとられた。しかし、祖国防衛を強調する政治宣伝のもとで、国民は苦難を耐え抜いた。
 ソ連ではドイツ軍の侵攻によって2500万人が家を失い、レニングラードでは100万人が餓死した。女性が新たな労働力として職場に組みこまれた。以前の2、3倍の生産ノルマも課せられたが、労働者はそれによく堪えた。ロシアでは戦争によって、新たな共同体意識さえ生まれていた、と著者はいう。
 ドイツの保護領となったチェコでは、終戦までほぼ戦闘はなかった。しかし、チェコの愛国者にたいするナチスの弾圧は激しかった。
 クロアチアではウスタシャによる残虐行為がつづいている。いっぽう大セルビアの復興を望む将校グループの率いるチェトニクと、ティトーが率いる共産党パルチザン勢力の動きも活発になった。パルチザンはティトーのもと、ユーゴスラヴィアをひとつにまとめ、戦後、政府を樹立することに成功する。
 ギリシアではドイツ、イタリアの占領軍に対抗する動きが強まるなか、共産党レジスタンス運動とナショナリスト共和派の対立が激しくなっていた。
 イタリアは1943年7月にムッソリーニ政権が崩壊したあと、北部はドイツ、南部は連合国によって支配されるようになった。
 1943年9月、ムッソリーニはドイツ軍の支援を受けて、北部に傀儡政権を築く。それによりパルチザン闘争が活発になった。1万2000人のファシストとその協力者が殺害され、パルチザンの側には4万人の犠牲者がでた。
 1945年4月、パルチザン側はムッソリーニを逮捕して射殺し、その遺体をミラノ中心部につるした。これにより、イタリアは停戦を迎えた。
 ドイツが占領したオランダ、ベルギー、ノルウェー、デンマークにもナチスの協力者はいた。1942年以降、ドイツの力が弱まると、ドイツへの大衆の反発が高まる。とはいえ、地下のレジスタンス活動は危険であり、恐ろしい報復をともなうこともあった。
 これらの国々でもユダヤ人はよそ者とみられていた。とくにユダヤ人の多かったオランダでは14万人のユダヤ人のうち10万7000人が強制移住させられ、死の収容所に送りこまれた。ベルギーでも2万4000人のユダヤ人がアウシュヴィッツに送られている。
 フランスは国のほぼ3分の2を占める占領地域と、中部のヴィシーを首都とする非占領地域に分断されていた。右派のなかにはナチスに協力する者が多かった。しかし、大方の国民は占領体制に順応し、時が移り変わるのを待つ姿勢をとっていた。
 ドイツの占領は、当初、穏やかだった。しかし、逆境に立ちはじめると、フランスにたいするドイツの経済的要求は苛酷になった。食料や物資の不足にも悩まされるようになった。
 ペタン元帥の指導するヴィシー政権は、ファシズム的な統治体制を敷き、7万5721人のユダヤ人を死の収容所に強制移送した。
 だが、次第にレジスタンス運動も高まってくる。これにたいするナチスの報復もすさまじかった。にもかかわらず、共産系、保守系もあわせて、積極的レジスタンスの波は収まることがなかった。
 ドイツでは1942年ごろから物資の欠乏がひどくなり、政権への支持が低下した。最後の2年間は連合国による空襲が住民を恐怖におとしいれた。この空襲で40万人以上が死亡し、80万人が負傷、500万人近くが家を失った。
 さらにソ連赤軍が侵攻すると、大勢の難民が押し寄せてきた。東部からの逃避行のなかで、多くの女性と子どもを含む50万人近くが命を落とした。兵士と民間人の死者が、けたちがいに増えるにつれ、ドイツ人はヒトラーとナチ司令部、連合国をうらみ、自分たちを戦争の犠牲者とみなすようになった。
 第2次世界大戦の結果、ソ連の影響圏は東欧全域とドイツにまでおよぶようになる。アメリカは戦争を通じて超大国に変貌し、西欧全域に支配権を確立した。英仏独というかつての3つの大国は弱体化した。帝国の解体にともない、植民地では民族独立運動が巻き起こる。そして、ユダヤ人問題は何世代にもわたって、ヨーロッパの人びとに道徳上の問題を投げかけることになった。
 第2次世界大戦は広島と長崎に原爆が投下されることによって終結する。だが、それ以来、世界じゅうの人びとは核による絶滅の脅威と向きあうことを余儀なくされている。

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