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寅さんの旅(2)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(4) [われらの時代]

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 著者の川本三郎は、寅さんの旅をつづけている。
 第9作「柴又慕情」(72年)には吉永小百合が登場する。吉永はOL役で、友達ふたりと金沢に旅行している。そこで寅さんと遭遇する。
 映画の最初、寅さんは、小松から分かれる尾小屋(おごや)鉄道の駅のひとつ金平駅で目が覚め、あわてて汽車に乗る。その駅舎も線路もいまは残っていない。
 現在の金平集落は戸数50ほどで、寺と神社、公民館、九谷焼の工房があるだけ。鉄道がなくなり、すっかりさびしくなっても、あたりの様子は、映画のなかにしっかり「動態保存」されている、と川本はいう。
 京福電鉄の永平寺線も廃線になってしまった。しかし、映画にはいまはない京善(きょうぜん)駅が残されている。京善には古民家群が残っている。
「『男はつらいよ』が何度見ても面白い理由のひとつはそこに、失われた鉄道風景が残っていることにある」と川本はいう。
 寅さんはマイカーに乗ったりしない。汽車とバスで日本じゅうを旅するのだ。
 第9作では、寅さんが旅行に来たOLたちと、永平寺や東尋坊で遊んでいる。そのたたずまいは昔と同じ。
 第36作「柴又より愛をこめて」(85年)には只見線の会津高田駅がでてくる。会津若松から4つ目の駅だ。
 隣の根岸駅には「中田の観音様」と親しまれる弘安寺がある。「寅は、テキヤであると同時に、寺社を巡る巡礼者でもある」。門前の名物は「ボータラ」(棒ダラ)。
 会津柳津(やないづ)は温泉町。高台に圓藏寺がある。寅さんは柳津の小川屋で下駄を買い求めて、さくらと博に送ろうとするが、カネがないので、あきらめる。残念。
 著者はいう。

〈主観(自分を立派な渡世人と思い込んでいる)と客観(端からは間抜けにしか見えない)の大きな落差は、寅の特色であり、それが笑いを生んでいく。〉

 奥会津には、まだ昔の風情が残っている。
 寺社と温泉は滅びることのない最強の組み合わせだ。
 映画の第7作(71年)では、只見線の越後広瀬駅から、集団就職の少年少女が東京に向かう。そのころまで、まだ集団就職が残っていたのだ。
 この駅を通る列車は、いま1日4本しかない。
 著者はそのあと新潟から佐渡に向かう。寅さんは31作(83年)で、佐渡・宿根木(しゅくねぎ)の民宿に泊まっている。失踪した人気歌手と「佐渡の休日」を楽しんだあと、小木(おぎ)港で別れるという設定だ。
 出雲崎は日本海に面した北国街道の宿場町で、良寛の出身地。寅さんはここでも商売をする。「寅が一瞬、良寛のようにみえる」。このあたりも昔と変わらない。
 木曽路に向かう。
 寅さんの映画では、ちいさな駅がよくでてくるという。中央本線の落合川駅もそのひとつ。馬籠宿が近い。
 奈良井宿のある奈良井駅、奈良井と塩尻のあいだにある日出塩(ひでしお)駅も、そうした駅のひとつだ。
 日本ではいまも山里に大きな寺が残っている。昔の街道がすたれ、経済の中心が別の場所に移っても、寺は残るのだ。
 映画は大桑村(長野県南西部)の定勝寺をスクリーンに収めている。
 経済成長とはいったい何なのだろうかと思ってしまう。商品世界では、商品とカネの集まる場所に人が移っていく。だが、それによって失われるものも多い。カネの動きに合わせて、人が移り移った末、あとにはいったい何が残るのだろう。そんなことをふと思ってしまう。
 寅さん映画は回を重ねるごとにロードムービーになる、と著者は指摘する。
 上田の先には別所温泉がある。ここは第18作(76年)の舞台。寅さんはここでも無銭飲食で、警察のやっかいになる。
 第40作(88年)は上田と小諸が舞台。老人問題や地方の過疎化も取りあげられている。このころから事態は深刻になっていた。限界集落が増えている。
 かつてテキヤ、渡世人(あるいは行商や旅芸人)は、村の人にとっては、いろいろと旅の話を聞かせてくれる「まれびと」だった。だが、そうした旅人はいつ行き倒れになるかもしれぬ、はかない存在でもある。
 寅さんの映画には、そんなはかなさもにじみでる。山梨県明野(あけの)町(北杜市)で撮られた第10作(72年)の一シーンが印象的だ、と川本は書いている。
 京都では、寅さんの生みの母が連れ込みホテルの女将になっている。そこは祇園に近い安井毘沙門町。いまホテルはない。おしゃれで、にぎやかな場所になっている。外国人客も多い。こんなところにラブホテルがあってもカップルにははいりづらいだろう、と著者はいう。
 京都は変わっていないようで、時代とともに大きく変わっている。
 四日市から山にはいったところに湯の山温泉がある。寅さんは、ここの旅館で厄介になったものの、例によってカネがなく、旅館ではたらくことになる。そして、女将さんにほれて、いつものように振られる。
 映画は道中、煙突からもうもうと煙をはく四日市の町をとらえている。
 湯の山温泉は、昔より少し客が減った。「現在の湯の山温泉は寂しいところだった」と川本は書いている。車社会になって、温泉のはやりすたりは激しい。それでも、湯の山温泉が大きな歴史的財産であることには変わりあるまい。
 岡山県のあちこちを寅さんは訪れている。
 備中高梁(たかはし)市、総社市、津山市、勝山町(真庭市)など。
 川本はその町々を駆け足で回っている。
 津山には姫路からでる姫新線と、岡山からくる津山線、鳥取からくる因美線がクロスする。ここには扇形機関車庫も残っている。吉井川とともに発達した城下町だ。
 最終作、第48作(95年)の舞台となった。寅さんの甥、満男が狭い道で結婚式に向かう泉の車を妨害する。
 その冒頭に寅さんがでてくる。撮影されたのは、因美線美作滝尾(みまさかたきお)駅。
 いまは無人駅になっている。このあたり、かつては林業が盛んだった。
 津山から勝山までは姫新線の列車で1時間ほど。
 勝山は出雲街道の宿場町。その面影が残っている。瓦屋根、連子(れんじ)格子の商家が並ぶ。昔の日本のよさは、こんなところにしかないのかもしれない。ここも最終作のロケ地だ。
 つづいて、備中高梁に。寅さんは第32作(83年)で、国分寺から高梁に川舟ではいるが、さすがにそのころも川舟はなかったようだ。
 高梁には備中松山城がある。戦国の山城だ。
 高梁は第8作(71年)にも登場。さくらのつれあい、博の実家があるという設定。
 往事の武家屋敷が何軒も残っている。寅さんはそのあたりを博の父(志村喬)と歩く。
 第32作、博の父の3回忌で、ふたたび高梁を訪れた寅さんは、山裾にある薬師院に出向いている。
 町の様子は、撮影当時とほとんど変わらない。でも人口は減った。1970年の約5万3000人が、85年には約4万6000人、そして2015年には3万2000人になっている。
 第17作(76年)に登場するのが、播州龍野(たつの市)。ここはぼくの母の実家なので、ぼくにとってもなじみ深い町だ。子どものころは、夏休みになると、しょっちゅう祖母の和菓子屋に行っていた。
 川本は「いまどきこんな昔ながらの町が残っていると感動する」と書いたうえで、こう記す。

〈白壁と瓦屋根の武家屋敷、格子や卯建(うだつ)のある町家、寺社、堀割、鍵形の狭い道。戦災にも遭っていないためだろう、脇坂家5万3千石の城下町がそのままに残っている。〉

 町は映画がとられたときとほとんど変わらないという。「それも、努力して保存しているというより自然に残っているという生活感がある」。
 しかし、どうだろう。ぼくが子どものころの下川原商店街の様子はすっかり変わってしまった。おじが亡くなったとき、龍野に行けなかったのが悔やまれる。嘴崎屋の羊羹をもう一度食べたい。
 なお、映画に登場する龍野芸者(太地喜和子)は、当時からもういなかったという。
 寅さんは大阪でも商売している。第31作(81年)では、宗右衛門町(そえもんちょう)あたりの芸者(松坂慶子)に恋をするが、例によって行き違いで終わる。寅さんと大阪はどうも相性が悪い。
 ロケ地の通天閣近くの商店街の様子は、撮影当時(81年)とさほど変わっていないという。
 大阪は第39作(87年)にも登場する。
 寅さんはともかく、山田洋次と大阪の相性は悪くないようだ。

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