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西部邁『保守の遺言』を読む(4) [本]

 ようやく最後の章にたどりついた。
 戦後日本を動かしてきたのはアメリカニズムだ。著者は保守の立場から、そのアメリカニズムを批判する。
 奇妙なことに戦後日本では、アメリカを支持する側が「保守」、ソ連を支持する側が「革新」と呼ばれてきた。「革新」はもちろん虚妄だったが、著者にいわせれば「保守」もけっしてほんらいの保守ではなく、アメリカニズムに毒されていたのだった。
 保守とは共同体の歴史と伝統を維持しようという者をいう。したがって、そもそもアメリカニズムと鋭く対立するのである。
 アメリカニズムとは何か。それは、ひとつにモダニズムである。「最新のモデル(模型)」を「大量のモード(流行)」として流すやり方。次にレフティズム(左翼主義)。すなわち、歴史と伝統を破壊しつづけるやり方。さらにラショナリズム(合理主義)。すなわち形式化と数量化。言い換えれば技術主義の支配。そしてマスクラシー(衆愚政治)。すなわち民主主義という名のもとでの、世論の風向きによる政治。
 こうした要素からなるアメリカニズムが、戦後日本を毒してきた、と著者はいう。
 著者はさらに現在の商品社会にもふれる。商品(コモディティ)とは、市場で取引される財やサーヴィスを指すが、それはもともと「だれにとっても共通するもの」という意味だったという。その商品はひたすらコンヴィニエンス(便利さ)を求めて、次々つくりだされる。それはたしかに短期的には便利なものかもしれないが、長期的には「社会制度を混乱させたり公共性の規準を破壊したり」する事態を招く。
 商品の世界では、つねにイノヴェーションが進行している。次々と便利さを求めて刷新される商品が、貨幣を通じて大量に消費されるのは避けがたい。だが、こうしたマスの行動が社会秩序を破壊し、ひいては世界秩序を混乱させ、紛争や戦争を招くのだ、と著者はいう。金融市場がバブルとその崩壊をくり返すのも、イノヴェーションにともなう拝金主義のせいである。
 こうしたなかで、国家の役割は欠かせない。というのも、危機にさいして対応できるのは国家しかないからである。現在の企業は拝金主義に傾き、イノヴェーションを追求するあまりに、被雇用者をないがしろにすることもいとわない。投機や詐欺、社会的格差の拡大も、こうした企業の行動と無関係ではない。イノヴェーションによる社会秩序の劣化(その象徴がIT)がいつまでも許されていいわけがない、と著者はいう。
 資本主義に歯止めをかけなくてはならない。私有財産はもちろん認めるべきだが、それには一定の枠がはめられてしかるべきだ。所得税や固定資産税、財産税を強化するのも、そのひとつの方策だ。資本分配率が高すぎないように、政府が企業統治に関与することも検討されてよいという。
 シュムペーターによれば、イノヴェーションが生じるのは、商品、技術、販路、資源、経営の分野においてであり、それらを結合することによって、資本家は利潤と資本蓄積の最大化をめざすとされる。そうしたイノヴェーションが求められるなか、資本は国境を越え、グローバルに拡大していく。資本と資金の野放図な動きに国家が規制をかけ、社会を保護するのはとうぜんのことだ、と著者は考えている。
 資本家は日々、資産を増やすことだけを目的として生きている。そこに働いているのは、いわば「支配欲動」である。この支配欲動のもとで、労働者は資本家の意思のままに動かされ、ロボットやサイボーグと化す。それでも人間は自己意識を捨てることなどできず、資本家の仕打ちに不快や不満、反発を覚えるだろう。
 とはいえ、労働者集団が企業を支配するのは不可能である。そうなれば絶え間ない内部紛争が生じて、拠って立つ企業そのものが分解してしまうからである。そこで、実際には、資本家が懸命に企業の運営と拡大をめざすのと同様に、労働者もみずからを企業と一体化する傾向が生じる。この傾向を著者は勤労主義と呼んでいる。
 資本の拡大に向かって突き進む企業活動が寄り集まると、ついには経済の膨満と破裂に行き着く。これにたいし、計画経済を対置しても、中央政府による指令はきわめて硬直したものとなり、経済の活力を奪ってしまうことになる。したがって「有効なのは資本主義を中心におきつつも、それにたいして様々なレギュレーション(規制)をかけるということのみであろう」と、著者はいう。
 問題は資本主義の市場経済が、個人主義を表現する見本としての近代経済学によって席巻されてしまっていることだ、とも述べている。個人主義を玉条とする資本主義を政府は規制しなければならない、と著者は主張する。
 それは経済のゆるやかな規制にとどまらず、いわば経済統制の次元に達しているとみるべきだろう。というのも、著者は国民社会主義、刺激的に言い換えればナチズムだけが未来に可能な国家像だと主張しているからである。ただし、ヒトラーやムッソリーニのようなデマゴーグ独裁者を著者が認めているわけではない。
 著者によれば、国家とは「国民性にもとづく政府制度」を指している。国家は対外的には独立自尊をめざし、対内的には公共性の保全をめざす。そのことを踏まえていれば、ナショナリズムや国家主義が危険だという言説に惑わされることはないという。
 国家の将来は、世界共和国や世界連邦主義などではない、と著者はいう。「開かれた国家」と「多様な地域」こそが、国家の将来ヴィジョンであって、これに経済体制として国民社会主義が加わる。
 国民社会主義が重視するのは公共性の強化である。日本は巨大な資産を使い、主として食糧とエネルギーの自給度向上と都市住環境の再整備を中心として、さまざまなプロジェクトを立ち上げるべきだ、と著者はいう。
 財政赤字は現段階では恐れるに足りない。高齢化や格差是正のために社会保障費がさらに必要になるとしても、それによって社会的安定が確保されるのであれば、それは未来世代にも寄与することになる。
 土木建築に資金をつぎ込むことだけが能ではない。国家の強靱化をめざすことこそが、財政投資の目的である。
 消費税であれ、所得税であれ、法人税であれ、いずれ税金を上げていくのはとうぜんの措置だ。しかし、法人税を下げる必要はない。資本輸出に関する規制はもっと強化すべきだ、と著者は述べている。
 マスクラシーとキャピタリズムが現代社会を支配している、と著者は嘆く。要するに数とカネの世界だ。まさに文暗の時代だという。
 とはいえ、ニヒリズムに陥る一歩手前で踏みとどまらなくてはならない。「字義通りに懸命に生きて、時至ればこれまた字義通りに懸命に死ぬという生き方」をつらぬく以外にないのだ。
 日本人はみずからアメリカニズム、さらにはその深層としての近代主義を選び取ることによって、伝統を失おうとしている。生産者と消費者、インテリとマスは、進歩主義において共犯関係にある。マス社会には逃げ道がない、と著者は感じている。
 最後に著者はみずからの絶望を救い、堕落からはいあがらせてくれたのが妻の存在であったと述べている。「日常性のただなかで生き、日常の仕事を休みなくこなし、そしてごく日常的な形で骨(こつ)に変じていく女たちの、いわば『物たる者』としての存在論的な重みというものに僕は感銘を覚えずにはおられない」。このあたり感動を覚えないわけにはいかない。
 しょせんは無常である。しかし、無常のなかで恒常を保ちながら生死する以外にない、というのが、本書のしめくくりとなっている。

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