広隆寺と蚕の社 [旅]
高砂で母の1周忌を終えた翌6月4日、船橋に帰る途中、つれあいと京都に立ち寄り、太秦の広隆寺と御室の仁和寺を訪れました。
体調は少しずつ回復していますが、完璧というわけにはいきません。
それでも京都を楽しむぐらいの気持ちが戻ってきたのはありがたいことです。このかん、つれあいには心配をかけどおしでした。
広隆寺には京都駅から嵯峨野線(山陰線)に乗り、太秦で下車、それから10分ほど歩きます。
広隆寺の山門を目にしたら、昔にもきたことを思いだしました。でも、肝心の弥勒菩薩はみなかったと思います。
いずれにしても記憶があいまいになってしまっています。やっぱり、面倒でもブログに記録を残しておかなくちゃ。
記録なくして記憶なし。最近はやりの記録はございませんし、記憶にもございませんじゃ、困りますものね。しかし、当方も次第にそんな領域にはいりつつあります。
それはさておき、まずはお寺の境内に。
ここは京都最古のお寺だといいます。推古11年(603)に秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り、それをご本尊として建立したと伝わっています。秦氏は新羅からやってきた一族です。聖徳太子からもらったという仏像が、かの有名な弥勒菩薩半跏思惟像というわけでしょうか。
楼門をはいって、少し歩くと正面に上宮王院太子殿が見えてきます。聖徳太子を祀ったお堂ですね。帰化人の秦氏が聖徳太子を後ろ盾にしていたことがわかります。
その手前にはちいさな太秦殿がありました。秦氏の始祖を祀ったお堂です。
太子殿を横から1枚。聖徳太子の額がみえます。
参拝受付で入場料800円を払って、お目当ての新霊宝殿へ。
ちいさなハス池のあるお庭もスマホでパチリ。
そして新霊宝殿です。
内部は撮影禁止。
照明が抑えられています。正面にお目当ての弥勒菩薩。撮影ができないので、ウィキペディアの画像からお借りしました。
弥勒菩薩を眺めながら、しばらく、ぼんやりすごしました。日本でつくられた可能性もありますが、あきらかに新羅仏です。
弥勒が願うのは、平和で幸せな世の中。その思いは、いつの時代も変わりません。そんな時代がいつかやってくるのでしょうか。
広隆寺を出て、こんどは蚕(かいこ)の社に向かいます。
正確には木島坐天照御魂(このしまにますあまてらすみたま)神社というようです。ちいさな社なのに、壮大な名前をもっているのにおどろきます。
ここも秦氏との関係が深く、養蚕と機織りにかかわりがあります。だから、通称、蚕の社というのですね。むしろ、こちらのほうが本筋にような気もします。
一段下がったところには、三柱の鳥居があり、かつてはここから水が湧き出していたとか。
京都には、歴史の奥深さを感じさせてくれるこんなマイナーな神社が数多くあります。
ちょうどお昼どきになったので、われわれは蚕ノ社(かいこのやしろ)駅から2駅、嵐電に乗って、帷子ノ辻(かたびらのつじ)まで行き、ここで評判の中華屋さんに寄るつもりでしたが、何と月曜はお休み。仕方なく、王将で定食をとり、ついでにビールも頼んで、ひと休み。
また、嵐電に乗って、仁和寺に向かいました。
体調は少しずつ回復していますが、完璧というわけにはいきません。
それでも京都を楽しむぐらいの気持ちが戻ってきたのはありがたいことです。このかん、つれあいには心配をかけどおしでした。
広隆寺には京都駅から嵯峨野線(山陰線)に乗り、太秦で下車、それから10分ほど歩きます。
広隆寺の山門を目にしたら、昔にもきたことを思いだしました。でも、肝心の弥勒菩薩はみなかったと思います。
いずれにしても記憶があいまいになってしまっています。やっぱり、面倒でもブログに記録を残しておかなくちゃ。
記録なくして記憶なし。最近はやりの記録はございませんし、記憶にもございませんじゃ、困りますものね。しかし、当方も次第にそんな領域にはいりつつあります。
それはさておき、まずはお寺の境内に。
ここは京都最古のお寺だといいます。推古11年(603)に秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り、それをご本尊として建立したと伝わっています。秦氏は新羅からやってきた一族です。聖徳太子からもらったという仏像が、かの有名な弥勒菩薩半跏思惟像というわけでしょうか。
楼門をはいって、少し歩くと正面に上宮王院太子殿が見えてきます。聖徳太子を祀ったお堂ですね。帰化人の秦氏が聖徳太子を後ろ盾にしていたことがわかります。
その手前にはちいさな太秦殿がありました。秦氏の始祖を祀ったお堂です。
太子殿を横から1枚。聖徳太子の額がみえます。
参拝受付で入場料800円を払って、お目当ての新霊宝殿へ。
ちいさなハス池のあるお庭もスマホでパチリ。
そして新霊宝殿です。
内部は撮影禁止。
照明が抑えられています。正面にお目当ての弥勒菩薩。撮影ができないので、ウィキペディアの画像からお借りしました。
弥勒菩薩を眺めながら、しばらく、ぼんやりすごしました。日本でつくられた可能性もありますが、あきらかに新羅仏です。
弥勒が願うのは、平和で幸せな世の中。その思いは、いつの時代も変わりません。そんな時代がいつかやってくるのでしょうか。
広隆寺を出て、こんどは蚕(かいこ)の社に向かいます。
正確には木島坐天照御魂(このしまにますあまてらすみたま)神社というようです。ちいさな社なのに、壮大な名前をもっているのにおどろきます。
ここも秦氏との関係が深く、養蚕と機織りにかかわりがあります。だから、通称、蚕の社というのですね。むしろ、こちらのほうが本筋にような気もします。
一段下がったところには、三柱の鳥居があり、かつてはここから水が湧き出していたとか。
京都には、歴史の奥深さを感じさせてくれるこんなマイナーな神社が数多くあります。
ちょうどお昼どきになったので、われわれは蚕ノ社(かいこのやしろ)駅から2駅、嵐電に乗って、帷子ノ辻(かたびらのつじ)まで行き、ここで評判の中華屋さんに寄るつもりでしたが、何と月曜はお休み。仕方なく、王将で定食をとり、ついでにビールも頼んで、ひと休み。
また、嵐電に乗って、仁和寺に向かいました。
2018-06-07 06:08
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