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保守主義の約束──カーク『保守主義の精神』を読む(13) [本]

 ようやく最終章までたどりついた。まずはめでたい。
 保守主義は完敗したが、征服されたわけではなかったと、その冒頭、カークは書いている。とはいえ、保守主義の敵である自由主義や功利主義も1870年以降、英米ではまとまった勢力ではなくなっていた。その代わりにマルクス主義とその潮流が勢いをましたものとはいえ、それが醜悪なものになりさがっていることは、ソ連[本書刊行の時点ではまだ存在していた]や中国をみてもわかる、とカークは論じている。
 イギリスでは何度か社会主義(労働党)政権が登場した。しかし、それはいつも自家中毒を起こして、けっきょく保守党に政権を返上している。アメリカでは社会主義を公言する者はいなかった。1960年代には新左翼がもてはやされたものの、新左翼はまたたくまに疎まれ、いくつか暴力沙汰を起こして消滅していった。
 アメリカとイギリスでは、いわゆる進歩派は信頼を得られなかったのだ。しかし、保守主義も、その間、ずっと退却しつづけてきた、とカークは書いている。
 それでも保守派が守りつづけてきたものは大きい。それはまずキリスト教信仰である。その影響力は少しも衰えていない。イギリスでは立憲君主制が保たれ、アメリカでは憲法が尊重されている。私有財産制も維持されている。産業化と大衆化が進展し、家族や共同体のきずなが衰退しているにもかかわらず、保守の精神はまだなにがしか保たれている、とカークはいう。
 アメリカのリベラリズムは、薄汚れた死に向かっている。イギリスでは自由党がほぼ崩壊した。イギリスを福祉国家に導いたベヴァリッジは、晩年、政府から年金をもらうのをとうぜんのように思っている大衆の身勝手さに困惑していたという。
 社会主義に期待する人はいまではほとんどいない。社会主義者は甘言を弄して、権力を握ろうとする。しかし、社会主義がもたらすのは、けっきょくのところ惨めさの平等であることに、だれもが気づいてしまったからだ。
 こうして、カークは保守主義の原理に立ち戻る。それは「道徳と義務を求める意志」、「信仰、規範、伝統、慣習」、さらに「抑制された私的利益」を基本としている。とはいえ、もし保守の精神が取り戻せなければ、自由主義や社会主義以上にはるかに恐ろしいものがやってくるだろうと釘を刺すことも忘れていない。
 現在、保守主義者は人間存在の調和と国家の調和を取り戻すという困難な課題に直面している、とカークはいう。革命理論はけっきょくのところ、はじめに無政府状態を、次に徹底的な奴隷状態をもたらす。それは民主的独裁制と超官僚制の社会だ。
 そこでは、経済システムばかりか、人間の精神的・知的活動までもが計画の対象となる。これは社会主義を超えた新型の集産主義だ。新しい支配者は、集産主義の社会工学者であり、自身が権力の奴隷でもある。これは資本主義でも社会主義でもない、ただ国家のためにのみ築きあげられた巨大国家だ、とカークはいう。
 この計画社会では、人びとは常に戦時感覚におかれている。それでなければ忠誠心が衰えてしまうからだ。勤労、犠牲、目的達成が頭にたたきこまれる。さらに、偏狭な愛国主義と恐怖、憎悪が深層意識にすりこまれる。順応する国民には快適な生活環境が約束され、順応しない者には、徹底した恐怖政治が敷かれる。これが新しい全体主義国家だ。
 こうした全体主義国家に対抗するため、保守主義者は倫理と宗教的規律の回復を願う。指導力の問題にも関心をいだき、文明生活に広がりつつある社会的倦怠の病理を懸念する。地上の楽園をつくろうという武装したイデオロギーに反対し、真の共同体や地域を回復したいと願う。伝統的な行動様式こそが、保守主義の想像力の源泉なのだ、とカークはいう。
 1950年代は、まだリベラル派がアメリカの政界を牛耳っていた。保守的伝統は衰退したかに思えた。しかし、そのころから保守の伝統的で慣習的な思想が復活しはじめる。リベラル派知識人にうんざりする人が増えてきたのだ。知識人ということばは、リベラルとほぼ同じとみなされていた。伝統から切り離されたかれらは、大学を拠点とし、大衆に憐れみの目を向けながら、次々と変革の処方箋をばらまいていた、とカークはいう。
 アメリカでは、一般市民が、そんなリベラル派知識人に反感をいだくようになり、みずからを保守派ないし穏健派と称する人の割合が次第に増えていったのだという。
 家族や宗教的なつながり、地域共同体と社会倫理は、個人に先立って存在し、人びとの行動を支えている。そうした前提があってこそ、人は自由や権利を獲得する。そのうえで、人びとが共同して作りあげたものが、次世代を支えるベースになっていくのだ、とカークは論じる。
 保守が求めるのは、失われた共同体をいかに取り戻すかということである。近代化と産業化による共同体の破壊は「孤独な群衆」を産み落とし、それによって自由な人びとは、ついには狂信的な運動へと向かいはじめる。
 大衆が全体主義政党を支持する理由は貧困ではない。確かさを求めて、集団の一員に加わりたいからだ、とカークはいう。もし自分が社会から疎外され、差別されていると感じたら、人がみずからを認めてくれる集団を選んでも不思議ではない。
 いま家族が崩壊しているのは、昔はあった経済的ないし教育的な利点が家族からうしなわれているからである。機能が失われたとき制度は崩壊するのだ。かつては貴族制や村、教会などが、共同性をはぐくんでいた。いま、そういう共同性は失われつつある。「すべての歴史、近代史は特に、ある意味で共同体の衰退と、その喪失の結果としての廃墟についての報告である」と、カークは述べる。
 中央集権的な領域国家、近代の国民国家は、かつての共同体の機能や特権を奪い取っていく方向をたどってきた。近代国家が共同体を破壊しつづけたのは、多様性や共同体のつながりが、国家の脅威となったからである。そして、徴兵制と強制収容所は、ある意味で近代国家の発展した姿だ、とカークはいう。
 20世紀の専制政治は、そこからの逃避を許さないほどの徹底したものとなった。それは平等化、中央集権化のもたらした論理的帰結である。19世紀の産業主義は共同体と慣習を破壊し、政治的大衆を生みだした。そして、新しく生まれた落ち着きのない大衆が、全体主義国家を求めたのである。
 ファシズム国家は家族や伝統を語ることによって、みずからを偽装したが、じっさいにめざしていたのは、全体主義的な革命だった、とカークはいう。全体主義国家は、根無し草になった大衆を利用して力を得た。その指導者が過去の伝統や知識を抹殺しようとしたのは、個人の記憶が力と抵抗力の源となるからである。
 カークはいう。人間は個として完結する存在ではありえない。なぜなら、人は共同体なしには生存できないからだ。自由主義は個人主義と人民主権を唱えたが、それは大衆と全体主義国家によって取って代わられてしまった。しかし、共同体という考え方を捨てなかった保守主義者は、かろうじて砦を保ち、政治的全体主義に抗している。
 産業主義のもたらした疎外感、挫折感、孤立感は、けっして個人主義では癒せない。全体主義はそれを偽りの幻想によって救おうとする。それにだまされないようにするには、真の個性、民主主義、自由の精神によって共同体を守らなければならない。人間は全体主義の悪を止める力をもっているはずだ。「全体主義の悪を必要とするのは絶望的に退廃した社会だけである」と、カークはいう。
 カークは社会学者のロバート・ニスベットの見解を紹介しながら、現在必要なのは新しい自由放任主義だという。「新しい自由放任主義が目指すのは団結でもなく、中央集権化でもなく、大衆の支配でもなく、文化の多様性、多様な団体、責任の分散である」。国家を通じて、神の摂理により、人びとが人としての完璧さを求めていくような国を取り戻すのだという。
 保守主義はイデオロギーではない。それは人と共同体の秩序を回復するための思想と行動だという。そのいっぽうで、カークはいま恐れなくてはならないのは、相変わらずの主張をくり返すマルクス主義や無政府主義などではなく、現代文明の倫理的・社会的構造自体が崩壊する事態だという。それはいったいどういう事態なのだろうか。
 カークはこう書いている。
「いかにして、生きた信仰を孤独な群衆に取り戻させるのか、いかにして人生には目的[意味]があると人々に思い出させるのか──これが20世紀の保守主義者が直面する難問である」
 実証主義者の計画に沿って生きるのはつまらない。近代主義のもたらす孤独におちいれば、究極の忌まわしい挫折感が襲うばかりである。
 これにたいし、保守主義者が多くの洞察を求めるとするなら、それは社会科学者ではなく、詩人のなかにである、とカークはいう。そこで第一に挙げられる名前がT・S・エリオット(1888〜1965)である。
T.S._Eliot,_1923.JPG
[T・S・エリオット。ウィキペディアより。]
 エリオットはアメリカのセントルイスで生まれ、ハーヴァード大学で教育を受けたあと、ヨーロッパに渡り、ロンドンで人生の大半をすごした。『荒地』など長篇詩のほか、多くの詩劇や批評を残した。
 エリオットは現代文化という荒地を容赦なく観察し、信仰や習慣をはじめとする保守的伝統を擁護したのだという。純粋民主主義は支持せず、階級制の秩序を尊重していた。社会改造に積極的なエリートや官僚を疑いの目でみていた。
 エリオットの詩の基本は、保守することと再生することに向けられている。空っぽの人間をさらけだすことによって、永遠なるものへと回帰する道を示したのだという。
 偉大な詩人は政治家に劣らず国民を動かす、とカークはいう。そして「エリオットほど、秩序の崩壊を予期し、[文明世界が]廃墟となるのを避けようとした同時代人はいない」とつけ加えている。
 エリオットは魂の共同体、愛と義務のきずな、秩序と永遠性をうたう。
 すぐれた詩人たちは、未来の「すばらしき新世界」を探し求めているのではなく、かつてあったものを再建し、ふたたび元の状態へと戻そうとしているのだ、とカークはいう。それは規範と道徳、秩序ある自由を重んじるイギリス文学の特徴でもある。
 アメリカにはニューイングランドの系譜をひくロバート・フロスト(1874〜1963)がいる。フロストもまた伝統から力を得ていた。
 力が正義となる時代、欲望が力となる時代に、詩人たちは神に祈る。
 G・K・チェスタートン(1874〜1936)が、こううたったように。

  古い恋人を新しい恋人に代えるものは
  神に祈れ、悪いのをつかまぬように

 この詩が本書の結びとなっている。ちょっとユーモラスに終わるのは悪くない。

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