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信念としての民主主義──『丸山真男と戦後民主主義』を読む(6) [われらの時代]

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 冷戦が終わる1989年に、丸山は三位一体としての民主主義、すなわち理念と制度と運動からなる民主主義について語り、戦後民主主義をナンセンスとした69年の新左翼の考え方こそナンセンスだと述べたという。
 だが、69年当時、学生たちはなぜ丸山を批判していたのだろう。
 著者はこう書いている。

〈戦後民主主義をナンセンスとする左翼は、本当は民主主義をめざしていたのに、それが実現しない現実に裏切られた思いから、戦後民主主義を漫罵した。そして戦後民主主義の旗手でもなく戦後民主主義に賭けたわけでもない丸山をその正統とみなしたのだろう。丸山に批判を集中した。〉

 このあたりの心理はなかなか複雑微妙である。
 丸山は民主主義の正当性を擁護していた。いっぽうで民主主義が容易に全体主義に移行しうることも知っていただろう。だから、学生たちの暴力性と破壊性が、民主主義の解体につながることを危惧していたのかもしれない。
 学生側はもちろん丸山が、しばしば民主主義の名で呼ばれる戦後自民党体制の支持者ではないことを知っている。それでも丸山は大学という制度=社会権力の側に立っていた。だからこそ、大学、そして丸山を批判する運動(これも民主主義)に立ちあがったのである。
 丸山が戦後民主主義の旗手だったからではない。ただ、民主主義が非暴力的におとなしく当局の決定にしたがうことを意味するのだとすれば、そうした民主主義にがまんがならなかっただけである。
 そこには、精神的にも肉体的にも互いを傷つけあう闘争が発生した。紛争は収拾される。だが闘争は内向し持続することになる。
 著者によると、1968年から69年にかけては、全共闘だけではなく、戦後民主主義を否定する声があちこちで挙がっていたという。
 たとえば、鶴見俊輔は「戦争中の軍国主義と超国家主義のにない手がそのまま戦後の平和主義と民主主義のにない手であるような日本の現代が、ニセモノでないはずはない」と書いている。
 当時の学生の多くは、そのニセモノ性にがまんがならなかった。
 機動隊導入により安田講堂の封鎖が解除されたあと、吉本隆明が述べた「戦後民主主義は終わった」ということばが、学生たちの共感を呼んでいた。
 著者は、山本義隆が「[1969年]2月21日の夜、日比谷公会堂の3500人の前に現れて、『権力と一体となってわれわれの闘争を圧殺し、われわれを権力に売りとばした大学当局執行部と、ある時は進歩的な顔をし、あるいはジャーナリズム等でそれなりに恰好のいいことを言っていたいわゆる戦後民主主義者とか』と徹底的に闘う、と火を吐くような演説をした」と記している。
 この集会にはぼくも参加し、2階の席から、山本がたしかに「火を吐くような演説」をする姿を見ていたことを懐かしく思いだす。
 丸山は3月10日に病気で倒れたあとも、そのころの戦後民主主義総攻撃に違和感を覚え、かえって民主主義への確信を強めていったという。
 丸山は全共闘が今後、急進化し、純粋化し、暴動化し、分裂するとみていた。
 そのころ東大助教授の折原浩が、丸山が教授の人道問題に反応したのに、学生の人道問題に反応しなかったのは、教授会のメンバーという立場に拘束されたのではないか、と批判した。その批判にも丸山は反発した。丸山は何はともあれ全共闘の暴力性や不寛容性が許せなかったのである。
大学解体や自己否定が全共闘の合言葉になっていた。
 これにたいし、丸山は自分のノートに「自己否定などというカッコいいことをいうなら、まず否定するに足るだけの学問的な蓄積につとめるがよい」と書き記した。
 丸山は、そこに、自己否定と称して他者を否定し自己を肯定する全共闘の偽善をみていたのではないか、と著者はいう。
 けっきょくのところ、丸山にとって、全共闘とはどういう存在だったのか。
 著者はこう書いている。

〈69年の丸山は、全共闘をもっぱら否定的に見ていた。暴力的、制度的構想力欠如、ロマン主義、反政治主義、形式否定、集団的同調主義、東大の既成体制の全否定、自己否定ゆえの他者へのパリサイ的弾劾、反体制的言辞のみ、大衆の前での自己批判要求、不毛な思考形態としての果しなき闘争、ついには疑似宗教的革命運動。それを日本的とか戦前型とか考えるのは丸山の思考形態だが、ともかく否定的だった。〉

 しかし、そう思いつづけるうち、丸山は次第に自己嫌悪におちいっていく。東大教授であることに嫌気がさしてくるのだ。
 4月に一時退院したあと、丸山は肝臓がんが疑われ、6月にふたたび癌センターに入院した。検査の結果、危険ではない慢性肝炎とわかり、8月に退院。しかし、そのあとも熱海で療養をつづけている。
東大をやめる決意をしたのは、そのころだという。大学から足を洗って、日本思想の「原型」をめぐる仕事を進めたいと思うようになっていた。
 大学紛争が収束していくのは、いわゆる大学法案が成立し、大学の管理が強化されるようになった69年冬ごろからである。
 このころ丸山はノートに「自己否定が叫ばれる時代に、祖国と民族と伝統への回帰を説く論調がめだって来た」と書いている。
 69年5月13日には、東大駒場キャンパスで、東大全共闘と三島由紀夫の討論会が開かれていた。
 丸山は東大紛争で自分の学問が試されたとは思っていなかった、と著者はいう。だが、少なくとも、その政治学は試されていたのではないだろうか。丸山には政治学や国家論の体系がなかった。おそらく、民主主義についての歴史的考察もなされていない。集中していたのは、あくまでも日本政治思想史である。
 新左翼や全共闘には民主主義の理念も運動もないというのが丸山の見方だった。全共闘は許せなかった。かれらが戦後民主主義の継承者だとはとても思えなかった。全共闘は伝統的、日本的な存在で、まるでかつての青年将校と同じだと感じていたのではないだろうか。
 丸山は71年3月に東大を早期退職し、ひと仕事を終えたあと、73年6月から短期間、アメリカのプリンストン大学、ハーバード大学、イギリスのオックスフォード大学などに出向いている。75年にもプリンストン大学、83年にもバークレーに滞在しているから、アメリカの学会との縁はけっして浅くなかったといえるだろう。
 最晩年になっても、民主主義にたいする丸山の信念は揺るがなかった。マスコミには登場しなかったが、聞きにくる者には、うまずたゆまず民主主義について語っていたという。

〈民主主義は新しいし、また、ある意味では不自然な考え方なんです。……民主主義というのは、みんなが天下国家のことを、少しは考えるということを前提にしているから非常に厄介なんだ。〉

〈民主化によってかろうじて民主主義であり得るような、そういうものなんです。現実の民主主義ってのは。……民主主義という不自然な運動は、つい最近始まった、人類の長い歴史から言えば。だからそれは、とてもだめじゃないかと思ってはいけないんですよ。……戦後の民主主義運動について言えば、甘かったですね。自立した個人が出てくるという期待があったんです。……現代の日本の政治体制は政権交代のない民主主義、相対的に言論の自由があるところの一党独裁じゃないですか。〉

 丸山が亡くなったのは1996年8月15日である。享年82歳。この日はまさに終戦記念日で、東大を退官してから25年が過ぎていた。

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