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ヴォーゲル『日中関係史』を読む(1) [本]

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 著者のエズラ・ヴォーゲルはハーヴァード大学名誉教授。著書に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』や『現代中国の父 鄧小平』などがあり、日本でもよく知られた人だ。ことし90歳になる。
 本書「まえがき」には、こう書かれている。

〈日中関係には、「緊迫」「危険」「難解」「複雑」という言葉が当てはまる。……もし日中関係の取り扱いを間違えば、両国は軍拡競争に走り、二国間、地域、グローバルな問題で協力が行き詰まり、最終的には紛争になるだろう。だが、日中関係を適切に取り扱うことができれば、両国は国際秩序と地域の協力枠組みを守るために助け合える。貿易、経済建設、研究開発、平和維持、自然災害対応などの分野で、両国は力を合わせていけるはずなのである。〉

 ここには、これからの日中関係が大きな紛争にいたることなく、平和的な友好関係を保ちながら推移してほしいという著者の願いがこめられている。
 だが、現実にはどうか。世界史をみても、「日中ほど長い歴史を持つ二国間関係はあまりない」のだが、それにしても両国の関係は荒々しい紆余曲折をへてきた。近代においては、とりわけ戦争と対立がきわだっている。
「私は自分自身を、日本と中国の双方の見方だと思っている」と、著者は書いている。第三者というより、両国をよく知るもっと身近な仲裁者のような立場である。
 理解しあうには、両国が真摯に歴史に向き合うことがだいじなのは、どちらもわかっている。しかし、そこにはたがいの複雑な感情がからみあって、バランスのとれた観点をもつことなど不可能なのである。
「それ[日本と中国]以外の国の研究者であれば、より客観的でバランスのとれた観点から歴史を検証し、日中の相互理解に何らかの貢献ができるかもしれない」。アメリカ人の歴史家という立場が有益なのはそのためである。
 本書はそういう思いからえがかれた、1500年にわたる日中関係史といってよい。
 重点は近現代、すなわちこの200年に置かれている。それはもっとも評価がわかれる時期ともいえる。
 長大な本書を網羅的に紹介するのは骨が折れる。ここでは現代、すなわち戦後に焦点をしぼって紹介する。日清、日露、第1次世界大戦、日中戦争にいたる激動の時代は現代を理解するうえでも、とても重要なのだが、それはむしろ背景としてつねに念頭におくことにしよう。

 現代を扱った章は4つに分かたれている。

  第9章 大日本帝国の崩壊と冷戦 1945〜1972年
  第10章 協力 1972〜1992年
  第11章 日中関係の悪化 1992〜2018年
  第12章 新時代に向かって

 これをみれば、戦後の日中関係は、断絶、協力、反発、(そしてあわよくば)共存という流れのなかで動いていることがわかる。
 転換点になったのは1972年である。ぼくにとっては「われらの時代」だった。
 この年、ぼくは日中学生友好会の一員として中国を訪れた。それ以降、中国には行っていない。
中国に好感情をいだいていたわけではなかった。むしろスターリニズムの国だと決めつけていた。それはあのころ読み親しんでいた吉本隆明の影響だったにちがいない。
 それでも学生友好会にもぐり込んだのは、いちどこの目で実際の中国を見てみたいという思いが強かったからである。すでに収束しつつあったとはいえ、文化大革命への興味もなかったわけではない。
 だが、何といっても竹内好が、われわれにとって中国がいかに大きな意味をもつかを教えてくれていた。この人からさまざまなこと、とりわけ生活(文化)の幅が、政治の幅よりもずっと大きいことを教わらなければ、ぼくも中国にさして興味をもたなかったかもしれない。
 大学をでてから、中国との関係はだんだんと失われていった。それでもいま中国がどうなっているかという関心はつづいていたが、それはニュースで知るくらいの断片的なものにとどまる。
 本書がありがたいのは、とりわけ現在の日中関係をバランスのとれた視点から大きく描いてくれていることである。政治に敏感な向きからすれば、著者の見方は甘すぎるという見方もじゅうぶん成り立つだろう。しかし、日中がふたたび戦争をはじめるといった悪夢は見たくないという思いからすれば、本書のえがく歴史は、少なくとも未来への可能性をつないでくれるものだ。
 以下は備忘のためのメモである。

【引き揚げ】
 1945年に大日本帝国は崩壊する。日本は植民地の朝鮮と台湾、それに実質上、帝国の一部だった満洲を失う。当時、日本の人口は7200万人だったが、そのうち690万人(兵士370万人、民間人320万人)が外地でくらしていた。日本にとっては、その引き揚げが当初の課題だった。
 ソ連の侵攻後、満洲でおよそ60万の日本人捕虜が、シベリアなどに送られ、建設現場で肉体労働者として働かされた。かれらが帰還を認められたのは1947年から49年にかけてであり、およそ45万人が日本に戻ることができた。
 中国に取り残され、帰還を待つあいだに死亡した日本人は20万人と推定される。なかには中国に留まった家族や孤児もいるが、大半の日本人は1950年4月までに帰国を果たすことができた。
 1949年に中国で共産党が権力を握ったときも、およそ3万4000人の日本人が旧満洲に残留していた。そのなかには、中国人民解放軍空軍の創設に貢献した人物もいる。
 いっぽう戦争が終わったあと、日本では台湾と朝鮮の出身者が数百万人くらしていた。そして、帰国の道を選ばなかった多くの人々は、日本社会のなかで苦難の道を歩んだ。

【中国大陸】
 大日本帝国が崩壊したあとは、大きな空白地帯が生まれた。
 1945年9月3日に日本軍が正式に降伏したあと、中国大陸では国民党と共産党の協調関係が維持できなくなった。終戦とともに、共産党軍、国民党軍、ソ連軍が競い合うように満洲へと向かった。満洲に備蓄された兵器と工場を接収するためである。
「日本の侵略がなければ、国民党は1930年代半ばに共産党を壊滅させていたかもしれない」と著者は書いている。しかし、日中戦争により、国民党は西南部に後退し、共産党は西北部を拠点として、反日統一戦線を組むことになった。
 日本が降伏すると、1945年から49年にかけ国共内戦がはじまる。重要な戦いで勝利を収めたのは共産党である。国民党は軍事を優先して経済政策を怠ったため、支配地域で激しいインフレと物資不足を招いた。その結果、汚職がはびこり、国民の支持を失う。これにたいし、共産党は土地の分配を約束することで、農民のあいだから多くの兵士を集めていた。
 共産党軍は北平(現北京)を占領したあと、長江に向かって南下する。長江を渡るころ、国民党軍はすでにもちこたえられなくなっていた。1949年10月1日、共産党は中華人民共和国の建国を宣言する。

【占領下の日本】
 いっぽう日本は1945年9月から52年4月まで、アメリカの占領下に置かれている。占領軍がまず考えたのは、天皇の力を利用することである。そのうえで、財閥解体、農地改革、教育改革をはじめ、日本がふたたび軍国主義に戻らないようにするための改革を実施した。
 戦後の最初の2年間に、日本では数万人が餓死した。食料供給元の植民地を失ったことも大きかった。すでに日本は食料を海外から輸入しなければやっていけなくなっていた。輸出を増やす必要があった。それまで満洲から輸入していた原材料や食料を肩代わりしたのはアメリカである。輸出を促進するため、日本では政府が主導して、工業製品の品質向上がはかる体制がつくられた。
 1946年5月から東京裁判がはじまり、48年11月にA級戦犯28人に判決が言い渡された。うち軍人6人と文官1人が死刑になった。ほかの国々でも、日本の戦犯が裁かれた。中国では883人の日本人が裁判にかけられ、149人が処刑されている。
 1947年になると、冷戦が激化し、世界の分断が進んでいた。占領当局は日本をソ連に対抗する同盟国候補とみなすようになる。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、米軍は朝鮮半島に投入され、日本では警察予備隊がつくられた。そして、1954年の自衛隊設置となる。
 この「逆コース」戦略を生みだしたのはジョージ・ケナン。ケナンの対日政策の最大の目標は、強く安定した経済の構築であり、そのため大企業を解体するという初期の占領政策は廃止されなければならなかった。
 日本企業は合成繊維をはじめとする新技術をアメリカから取り入れて、勢いを取り戻した。輸出が増えるとともに、食料や原料を輸入する余裕もできた。

【朝鮮戦争】
 戦後、朝鮮半島は共産主義陣営と資本主義陣営がぶつかりあう舞台となった。戦後、朝鮮半島は38度線を境として、南側がアメリカ、北側がソ連により分割占領された。1948年8月15日に南側で大韓民国、9月9日に北側で朝鮮民主主義人民共和国が誕生する。その翌年、アメリカ軍もソ連軍も朝鮮半島から撤退した。
 1950年6月25日、重武装の北朝鮮軍が38度線を越えて南側に侵攻を開始した。北朝鮮の金日成はすでに毛沢東の支持をとりつけていたが、アメリカ軍が介入するとは予想していない。北朝鮮軍はただちにソウルを占拠し、さらに釜山近くまで侵攻した。
 7月7日、国連は国連軍を朝鮮半島に派遣することで合意(ソ連は安全保障理事会をボイコット中)した。これを受け、アメリカ軍は9月15日に仁川に上陸し、2週間後にソウルを奪還した。国連軍が38度線を越えると、約20万の中国義勇軍が北朝鮮にはいった。国連軍は押し戻され、ソウルはふたたび北朝鮮と中国義勇軍の手に落ちた。
 その後、戦況は膠着状態となり、1953年7月27日に休戦協定が結ばれる。そのかん、日本はアメリカ軍の兵站基地となり、それにより日本経済はおおいに潤う。

【台湾】
 日本の植民地時代、台湾の平均的な生活水準と教育水準は大陸中国よりずっと高かった。そこに1947年、蒋介石の国民党勢力が大挙して渡ってきた。1947年2月28日には、台北で暴動が発生、国民党軍は1万8000から2万8000人の住民を殺害した。
 国民党が台湾を支配するようになってからも、日本企業が排除されることはなかった。日本の産業復興とともに、台湾でも工業化が進み、多くの台湾企業が成功を収めた。
著者はこう書いている。

〈1960年代半ばまで、日本の実業家の多くは、台湾は小さな島だがビジネスチャンスは大陸より大きいと考えていた。台湾の人口は大陸より少ないが、日本は1964年まで台湾により多くの製品を輸出していた。〉

 日本企業が台湾だけでなく大陸と経済関係の構築を望んでいたことはいうまでもない。

【戦後の日中関係】
 1949年から72年まで、日本は中国と非公式な接触を保っていた。わずかながら日中貿易もつづいている。
 中国側は廖承志と郭沫若、日本側は宇都宮徳馬、松村謙三、河野一郎、高碕達之助が政治的窓口となっていた。
 朝鮮戦争終結後の日中関係は山あり谷ありだった。
著者はこうまとめる。

〈1953年から1957年までは、周恩来、吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山が関係改善に努力した。1957年から1961年までは、中国が左傾化し、日本が右傾化したために両国関係が悪化した。1961年から1966年までは、中国が大躍進政策をとりやめ、池田勇人首相が挑発を避ける努力をしたために関係はいくぶん改善し、廖承志と高碕達之助のイニシャルをとった「LT貿易」協定が結ばれた。文化大革命初期の1966年から1971年まで、両国関係はふたたび後退した。〉

 1949年以降も日本は対中貿易を拡大したいという意向をもっていた。だが、アメリカはそれに反対し、吉田茂は日本が共産中国と2国間条約を結ばないことを約束させられた。
 サンフランシスコ講和条約が発効したあと、日本は台湾と日華平和条約を締結する。だが、吉田は最終的に中国とのあいだに全面的な平和・通商関係を樹立することを望んでいた。
 朝鮮戦争が終結し、中国国内の政治が安定すると、中国共産党は外国との関係を改善する方向に舵を切った。それを主導したのが周恩来である。
 周恩来は日本との関係改善と貿易拡大をめざしていた。1955年に日本で55年体制と呼ばれる安定した政治経済体制ができあがると、鳩山一郎と石橋湛山は中国との関係改善に向けて大胆なアプローチをとった。
 1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議で、中国と日本は秘密会談をおこなうが、突破口は開けなかった。
 それでも、この年、78人の国会議員が中国を訪問し、東京と大阪で「中国商品見本市」が開かれた。小規模とはいえ、貿易関係は1955年から56年にかけ徐々に増加していった。このころ約2000人の日本人が中国を訪れ、中国代表団も日本を訪問している。
 中国は1957年から60年にかけ政治的締めつけ(反右派闘争)を強化する。それは岸政権時代と重なっていた。岸信介は保守派で親台派として知られていた。1958年、長崎での中国国旗毀損事件をきっかけに、毛沢東は日本との経済関係を断ち切り、1959年と60年の日中貿易は低迷する。
 中国の大躍進政策は大惨事を招いた。そのいっぽう、日本経済は順調に成長する。
中国は穀物を育てるための化学肥料と、農業機械を製造するための鉄鋼を必要としていた。木綿に代わって化学繊維を取り入れたいとも思っていた。
 1960年には中ソ関係が決裂した。中国からソ連の技術者が一斉に引き揚げる。そこで中国は日本に目を向けようとするが、それが具体化するのは池田勇人政権になってからである。
 1960年7月、中国の代表団が日本を訪問、これを受けて高碕達之助を団長とする団が中国を訪問した。1962年11月には廖承志と高碕達之助のあいだで「日中長期総合貿易に関する覚書」が交わされた。これがいわゆる両者のイニシャルをとったLT貿易のはじまりとなる。民間の「友好商社」による貿易も認められていた。
 この協定により、倉敷レイヨン(現クラレ)は中国にビニロン・プラントを建設する。化学肥料や鉄鋼も中国に輸出された。
 台湾政府とアメリカはLT貿易に強く反対した。しかし、民間企業による友好貿易は急速に増え、相互の貿易額は1961年の4800万ドルから66年の6億2100万ドルへと拡大する。
だが、その後の文化大革命により、貿易の伸びは頭打ちとなった。それでも1960年代半ばに日本の対中貿易は対台貿易を追い越していた。

【文化大革命と田中訪中】
 文化大革命がはじまると、日本の実業家は中国から引き上げていった。しかし、68年には紅衛兵の攻撃も下火となり、「日中覚書貿易」協定が結ばれる。69年と70年に日中貿易の額は増加に転じた。だが、それは年間10億ドルにとどかない微々たるものだった。
 1971年7月、キッシンジャーが中国を訪問する。8月、ニクソンは1ドル360円の固定為替レートを自由化すると発表。いわゆるニクソン・ショックである。ショックはそれだけでは終わらない。1972年2月にニクソンは中国を訪問した。
 いっぽう1972年7月7日に首相に就任した田中角栄は、就任からわずか2カ月後の9月25日から30日まで中国を訪問し、29日に日中国交正常化声明を発表した。

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