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吉本隆明『共同幻想論』をめぐって(4) [われらの時代]

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[8月6日、遠野伝承園にて]
 狐を媒介にして、共同幻想に同調し、人の運勢や収穫のよしあしを占う「いずな使い」に比べ、巫女(ふじょ、みこ)がいちだん高いレベルにあるとみられるのはなぜか。
 吉本はこんなふうに語っている。

〈わたしのかんがえでは《巫女》は共同幻想を自己の対なる幻想の対象となしうるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が《巫女》にとっては《性》的な対象なのだ。巫女における《性》行為の対象は、共同幻想の凝集された対象物である。〉

 例によって、むずかしい言い方だが、巫女が女性でなければならないことはまちがいない。
 そして、女性が巫女になりうるのは、吉本によれば、女性の本質にもとづいている。そもそも女性とは「〈性〉的対象を自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらぶ」存在なのだ。
 この定義があたっているかどうかはわからない。女性には、共同幻想を性的に引き寄せる力が、もともと備わっていると理解しておこう。女性は狐などを媒体としなくても、みずからのからだによって共同幻想と一体化しうるのだ。
 その共同幻想は、一般に神と呼ばれる目に見えぬ力である。村里では、その神は何も神社に祭られている祭神とはかぎらない。池に住む蛇や森の熊、樹齢何百年もの樹木、遠い先祖や亡き父母、夭折した子どもも、また神にちがいなかった。
 巫女はこうした共同幻想と一体化して、人びとに災厄の予兆や病気の原因を告げ、ことの吉凶を占い、戦いの勝利を祈る存在だった。
 共同体のまつりごとに、巫女は欠かせなかった。何せ、巫女は神と直接結びついているからである。
 だが、女性ならばだれでもが巫女になれたわけではない。神が乗り移るには、特別の訓練なり集中なりを要しただろう。
 上代の巫女には、共同体の祭司という大きな役割が与えられていた。だが、時代が下るにつれて、巫女は神社に所属する者(未婚の女性)と、民間の「口寄せ」(イタコ)へと分化していくことになる。
口寄せになるのは、盲目の女性が多かった。
 岩手県の遠野では、祭の日になると、家にイタコがやってきて、神棚や床の間に飾ってあるオシラサマ(農業と養蚕の神さま)を遊ばせたという。『遠野物語』では、オシラサマについて、イタコがこんなふうに語っている(口語訳)。

〈昔あるところに貧しい百姓がおり、妻はなくて美しい娘がいた。馬を一頭かっていたが娘は馬を愛して夫婦になった。ある夜これを知った父親は娘に知らせず馬をつれだして桑の木につりさげて殺した。娘はこれを知り悲しんで死んだ馬の首にすがって泣いた。父親はこれをにくんで馬の首を斧できり落したが、たちまち娘はその首に乗ったまま天に昇り去った。〉

 これがオシラサマ伝説の由来である。オシラサマは30センチほどの桑の棒の先に馬と娘の顔を刻んだ対の姿をしており、それにきれいな布が着せられている。
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[8月6日、遠野ふるさと村にて]
 巫女は、悲劇のうちに他界に去った夫婦神を、祭の日に地上に戻し、家族といっしょに楽しんでもらう仲立ちをするわけである。
 ここで『共同幻想論』は、「巫女論」から「他界論」へと移る。
 一見つながりがなさそうだが、無論、巫女と他界には大きな関係がある。
 他界とは彼岸、あの世のことである。
リアルに他界を見ることはできない。他界とは彼岸に想定される共同幻想のことである。他界をイメージするには、死の関門を通らなければいけない、と吉本は書いている。
 だれもが生理的に死を体験する。しかし、死の問題がむずかしいのは、それを自身が心で体験することはできず(というより体験したときにはすでに死んでおり)、他者の生理的な死についても、それをそばで見つめることくらいしかできないことである。
 そのため、死は心的体験としては、想像の領域でしかとらえることができない。死のイメージは、共同幻想の領域からやってくるほかない。吉本によれば、死とは「人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に〈侵蝕〉された状態」のことと理解される。
 死は人を此岸の共同幻想から彼岸の共同幻想、言い換えれば他界に追いやることになる。
 こうした他界は時間性だけではなく空間性をもっている。日本の伝説では、亡くなった人が神となって集まっている場所こそが他界として想定されていた。そして、この世から他界への道行きが、さまざまな幽霊話として伝わるいっぽうで、時に現実の場所としてつくられることにもなる。
 デンデラ野とかダンノハナと呼ばれる場所である。
『遠野物語』の記述を挙げておこう(口語訳)。

〈遠野の近隣には幾つか、おなじダンノハナという地名がある。その近傍にはこれと相対してかならず蓮台野[デンデラ野と同じ]という地がある。昔は六十をこえた老人はすべてこの蓮台野に追いやる風習があった。捨てられた老人は徒(いたずら)に死んでしまうこともならず、日中は里へおりて農作して口を糊した。そのためにいまもその近隣では朝に野らにでるのをハカダチといい、夕方野らからかえるのをハカアガリと云っている。〉

 ダンノハナは村境の墓地であり、その向こうに広がるデンデラ野は、いわば現世の他界である。正確には他界への入り口といってもよいだろう。家の役にたたなくなった老人は、このデンデラ野においやられた。ちょっと悲しい話だが、現実は今も昔もさほど変わらないといえるだろう。
 民衆にとって他界はそう遠い場所ではなかった。死者は他界に行って、神となり、村落と田を守った。墓地に刻まれた墓標には、すでに他界に行ってしまった死者たちとのつながりを示す名前と時間が示されていた。
 つぎの「祭儀論」は、神となった祖先たちが、他界からこの世に戻ってくる話である。
 祭儀は民俗的な幻想行為である。祭儀がとりもつのは死と生の循環であり、他界とこの世との行き来である。
『古事記』では、死と生はさほど隔たったものとして描かれていない、と吉本はいう。イザナミはイザナギを追って死者の国に行くし、スサノオに殺されたオオケヅ姫からは蚕や稲、栗、小豆、麦、大豆が生まれる。
 民間の農耕儀礼には、田の神を迎える行事があった。田に降りる田の神は家の神でもあり、祖神でもあった。
 吉本が紹介する能登の事例では、田の神は12月5日に家に迎えられ、さまざまな饗応と儀礼(田神迎え、アエノコト、若木迎え、田打ち、田神送りなど)をへて、2月10日の田神送りの翌日から田に降りることになっている。
 そして、この農耕祭儀こそが、天皇の世襲を正統化する大嘗祭の原型だというのが、ここでのポイントである。
 吉本はこう書いている。

〈天皇の世襲大嘗祭では、民俗的な農耕祭儀の《田神迎え》である12月5日と《田神送り》である2月10日とのあいだの祭儀時間は、共時的に圧縮されて、一夜のうちに行われる悠紀[ゆき]殿と主基[すき]殿におけるおなじ祭儀の繰返しに転化される。かれは薄べりひとつへだてた悠紀殿と主基殿を出入りするだけで農耕民の《家》と所有(あるいは耕作)田のあいだの祭儀空間を抽象的に往来し、同時に《田神迎え》と《田神送り》のあいだの二カ月ほどの祭儀空間を数時間に圧縮するのである。〉

 大嘗祭において、「田の神」祭儀は抽象化され、司祭である天皇は二重化されて、ここで神へと転ずることになる。
まず、天皇は悠紀殿と主基殿にもうけられた神座にやってきた神と差し向かいで食事をする。さらに、

〈悠紀、主基殿の内部には寝具がしかれており、かけ布団と、さか枕がもうけられている。おそらくこれは《性》行為の模擬的な表象であるとともになにものかの《死》となにものかの《生誕》を象徴するものといえる。〉

 吉本は、ここで新天皇は、祖神との模擬的な性行為を通じて、対幻想を最高の共同幻想と同致させ、みずからを神として再生させるのだと考えている。そして、神となった天皇は絶対的な規範力(精神的支配力)を有するようになるとされるのだ。
 大嘗祭の目的は、新天皇が祖神の霊を受け継ぎ、生神として再生するという共同幻想を演出することにあったといえるだろう。
 こうして、われわれはようやく天皇の誕生する場に立ち会うことになる。
 吉本はこう言う。

〈共同幻想が原始宗教的な仮象であらわれようと、現在のように制度的あるいはイデオロギー的な仮象をもってあらわれようと、共同幻想の《彼岸》に描かれる共同幻想がすべて消滅しなければならぬという課題は、共同幻想自体が消滅しなければならぬという課題とともに、現在でも依然として、人間の存在にとってラジカルな本質的課題である。〉

 当時は、かっこいいなと思ったものである。

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