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春名幹男『ロッキード疑獄』を読む(2) [われらの時代]

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アメリカの航空機会社ロッキード社による日本へのエアバス売り込み工作が最終局面を迎えたのは1972年のことである。
 その背景にはどのような状況があったのだろう。
 著者による説明を聞いてみよう。
 ベトナム戦争末期、軍需が減るなか、アメリカの巨大航空会社各社は経営困難におちいり、旅客機開発に社運をかけていた。
 そのころ、日本では田中角栄が首相となり、アメリカではニクソンが大統領に再選されていた。
 ニクソンは地元カリフォルニアのロッキード社に肩入れしていた。そのロッキード社が再建の柱としたのが、民間旅客機のL1011トライスターであり、その最大の売り込み先が日本だったのだ。
 ロッキード社の最大のライバルはマクダネル・ダグラス社だった。両者はともにエアバス(広胴型)のトライスター機とDC10の売り込みをめぐって、激しく争っていた。
 1970年代はじめ、日本では日本航空がエアバスの導入を断念したため、売り込み先は全日空にしぼられていた。その全日空にたいしても、ロッキード社はマクダネル・ダグラス社に遅れをとっていた。
 そこで、ロッキード社は、これまで日本に軍用機を売り込むさいに世話になっていた児玉誉士夫にあらためて工作を依頼する。調べてみると、すでに全日空は三井物産を通じて、DC10型機3機をオプション契約していた。
 1970年、児玉は汚い手を使って、全日空社長の大庭哲夫を辞任に追いこむ。こうしてDC10の発注が白紙に戻ったあと、ロッキード社の社長コーチャンが1972年8月から70日間、東京に乗り込んで、陣頭指揮をとり、全日空からの受注を勝ちとるのである。
ニクソンもロッキード社を支援した。
 1972年8月31日から2日間、ハワイでは田中・ニクソンの日米首脳会談が開かれていた。記録には残っていないが、その懇親会で、田中がニクソンにロッキード社のトライスター購入を頼まれた形跡がある。
 だが、田中がニクソンからロッキード社製のトライスター購入を依頼される約1週間前に、田中はすでに丸紅社長の檜山広から5億円の秘密政治献金の話を持ちかけられていたのだ。

 ロッキード事件が浮上するのは4年後の1976年になってからだ。
 そのころ、ニクソンはウォーター事件で失脚(田中も金脈問題で失脚)、その後、アメリカではニクソンへの違法な政治献金疑惑が浮上していた。
 アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会のフランク・チャーチ委員長は、証券取引委員会(SEC)とともに、多国籍企業による多くの違法政治献金事件を調査していた。そのなかで、ロッキード事件が見つかることになる。
 1976年2月4日。この日、ワシントンの連邦議会議事堂では、上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会が開かれていた。フランク・チャーチ委員長の名前をとって、チャーチ小委員会と呼ばれる。
 このとき、ロッキード社が対日工作資金として、児玉誉士夫に約700万ドル(当時のレートで21億円)、丸紅に約320万ドル(同9億6000万円)を支払っていたがあきらかになった。
 丸紅専務の伊藤宏がピーナツ100個を受領したという領収書も公表された。ピーナツは金を意味する暗号で、1個100万円で計1億円となる。ほかにも伊藤が4億円を受け取ったことを示すピーシズの領収書も提出され、丸紅が合わせて5億円を受け取った事実が立証された。
 他方、児玉の領収書には宛先がなく、児玉の丸印だけが押されていた。その枚数は36通、金額は15億4334万円にのぼった。
 2月6日の公聴会ではロッキード社副会長になっていたコーチャンが証言した。そこでコーチャンは、児玉誉士夫が1960年代はじめからロッキード社と協力関係にあったこと、旅客機トライスターの売り込みにあたっては国際興業社主の小佐野賢治の協力を得たこと、さらに丸紅側の提案により複数の日本政府高官に賄賂を送ったことを認めた。
 あらかじめ、その後の日本側の捜査についてふれると、児玉ルートは解明されないまま1984年の児玉の死去により捜査は終了することになる。戦闘機の売り込み工作に用いられたとされる総額21億円の行方は、いまもわからずじまいである。
 捜査が執拗につづけられたのは丸紅ルートである。その結果、丸紅から5億円を受け取ったとして8月16日に田中角栄が逮捕された。田中は1審、2審で実刑判決を受けたあと、上告後の1993年に死亡し、その後、ロッキード事件は次第に忘れられていった。
 田中逮捕にいたる経緯については、あらためてふれることにしよう。

 著者はチャーチ小委員会の半年前の1975年夏に、上院の別の委員会(銀行委員会)で、すでにロッキード事件が暴かれていたことをあきらかにしている。ロッキード社のホートン会長が、日本を含む各国政府の高官にカネを支払ったことを事実上認める発言をしていたのだ。
 日本のメディアは、この事実をほとんど報道しなかったが、この情報をいちはやく活用した国会議員がいる。社会党の楢崎弥之助である。
 楢崎は1975年10月23日の衆議院予算委員会で、ロッキード社の次期対潜哨戒機(PXL)と旅客機L1011トライスターの対日売り込みにさいし、日本の政界に5000万円ないし3億円のコミッションが流れたのではないかという疑惑を追及した。
 楢崎が注目したのは1972年8月31日から9月1日にかけてハワイで開かれた田中・ニクソン会談だった。だが、証拠はまだ見当たらなかった。楢崎がさらに田中とロッキード社との関係に言及するのは、翌年チャーチ小委員会が開かれた直後の2月10日のことである。
 チャーチ小委員会で事件が明るみにでた以上、東京地検、警視庁、東京国税局は動かざるをえなかった。合同捜索がはじまる。丸紅による改ざん書類やいくつかの証拠が見つかった。
 国会では2月16日から衆議院予算委員会で証人喚問がはじまった。だが、国際興業社主の小佐野賢治、全日空社長の若狭得治、丸紅社長の檜山広も、存じていない、記憶にございませんをくり返すばかりだった。
 じつはチャーチ小委員会の資料には、政府高官名を記したものはなかった。田中角栄の名前が明記されていたのは、証券取引委員会(SEC)の資料である。日本側はこの資料をどのようにして手に入れたのだろう。
 その裏にあったのは、首相三木武夫の執念である。三木おろしの動きが表面化するなか、三木はカムバックをはかろうとしていた金権政治家の田中角栄を政治的に封じようとしていたという。野党の証人喚問要求に積極的に応じたのもそのためだったが、その証人喚問は茶番で終わってしまった。
 三木はアメリカ政府に政府高官名を含めた関連資料の公表を求めていた。しかし、フォード大統領は捜査が完了するまで、SECの資料は公開できないとの立場を示した。

 ここで、時間を少し巻き戻してみよう。
 上院外交委員会多国籍企業小委員会、通称チャーチ小委員会がロッキード社の問題を取りあげるようになったのは、1975年9月12日からである。最初はインドネシアやイラン、サウジアラビア、フィリピンへの軍用機販売がテーマになり、翌年2月4日になって、ようやく対日売り込み工作の問題が取りあげられた。
 追及の焦点となったのはロッキード社から賄賂を受け取った日本の政治高官の名前だった。
ロッキード社の会計事務所からチャーチ小委員会に提出された資料には、政府高官の名前がはいった文書が削除されていた。外交関係に配慮したとされる。
 また調査されたのは民間航空機トライスターの件だけで、軍用機P3Cオライオンについてはまったく調査がなされなかった。
 こうしてチャーチ小委員会は尻切れトンボで幕を閉じることになる。
 他方、証券取引委員会(SEC)もロッキード社に資料提出を求めていた。ロッキード社に不正行為の疑いがあれば、徹底追及するのがSECの立場である。
 SECは外国政府高官の名前を特定するため、粘り強い調査をつづけていた。そして、SECが最終的に獲得したロッキード社の資料に、田中角栄の名前も含まれていたのだ。

 そのころアメリカの外交を牛耳っていたのがヘンリー・キッシンジャー(大統領補佐官に加え73年9月から国務長官兼務)である。
キッシンジャーは証券取引委員会(SEC)の資料を日本の東京地検に引き渡す件に関して、「助言」する権限をもっていた。キッシンジャーはSECの資料のなかに田中角栄の名前があることを知っていた。
 SECの資料はワシントンの連邦地裁の法的管理下に置かれていた。これを外国の捜査機関に引き渡すかどうかは、司法省と国務省の判断にゆだねられていた。
 日米司法当局の交渉により、3月23日に日米の取り決めが調印された。SECの資料が東京地検に到着したのは4月10日のことである。
 検察庁から派遣されて米司法省と交渉したのは堀田力だった。
 日本への文書提供に関し、最終的にチェックをおこなったのは国務省である。田中角栄の名前を記した文書は渡すが、日米関係に過度のダメージを与えないよう(つまり反米政権などが生まれることのないよう)最大限の配慮が払われた。日本に渡された資料は6000ページのうち2860ページだった。
 国務省内で田中角栄の名前入り文書を日本側に引き渡すよう強く求めたのは、国務長官のキッシンジャー自身だ、と著者はみている。
 ロッキード事件でアメリカ政府が恐れたのは自民党政権の崩壊である。非自民の反米政権が誕生すれば、日米安保体制はあやうくなり、在日米軍基地の維持もむずかしくなるかもしれない。しかし、政府高官の名前のはいった文書を日本側に渡さなければ、大物政治家が逮捕されず、日本国民の不満が溜まるいっぽうだろう。
 国務省は内部で論議を重ねた末、田中の容疑を示す文書を日本側に渡すことにした。アメリカ政府は、日本側の慎重な捜査が進展することで、むしろ三木政権が安定することに賭けたのである。
 4月10日に東京地検に到着したロッキード資料のなかで、政府高官名が記された文書は意外に少なく3点だけだった。だが、そのなかにロッキード社社長のコーチャンが手書きで記した人物相関図があった。その中央に書き込まれていたのがTanakaの名前だった。キーパーソンが田中であることはまちがいなかった。
 三木がロッキード事件の徹底解明を主張するなかで、水面下では三木おろしの動きが活発になっていた。だが、それは成功しない。世論はロッキード事件の解明を求めていたからである。
 1976年6月30日、ワシントンのホワイトハウスで三木・フォードによる2回目の日米首脳会談が開かれた。アメリカはクリーン・イメージの三木を洗練された「進歩派」と高く評価するようになっていた。
そして、このあと7月27日、東京地検特捜部は田中前首相の逮捕に踏み切るのである。
 疲れたのできょうはこのあたりまで。あらためて、すごい話だなと思う。

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