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美濃部達吉遠望(1) [美濃部達吉遠望]

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 この人のことをもう少し知りたいと思った。天皇機関説で有名なのは知っている。だが、それ以上のことはあまり知らない。そもそも天皇機関説がどういうもので、それがなぜ問題視されたのかもよくわかっていない。
 美濃部達吉は1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町(現高砂市)の蘭方医、美濃部秀芳の次男として生まれた。亡くなったのは1948年(昭和23年)5月23日。享年満75歳だった。
 縁がなくはない。美濃部達吉が生まれた高砂は、ぼくの生まれ育った地なのだ。それどころではない。達吉の生家は高砂の材木町にあり、南本町にあるぼくの実家と200メートルほどしか離れていない。
 なんだ、それだけかといわれそうだが、ほかにも縁はある。
 高砂市には「美濃部研究会」がある。達吉の業績を市民に伝えるために講演会や研究会を開いたり、いくつもパンフレットを出したりしている。
 その会長が親戚の宮先一勝さんだ。
 まだある。
 あるブログをながめていて、宮先さんが美濃部研究会で、こんな話をしていたのを知った。

〈美濃部家は但馬村岡山名氏の家臣で、寛政年間に高砂に移住。達吉の祖父の秀軒は天保10年に北本町の英賀屋善右衛門の借家に住んでいた。秀軒の妻みちは代々学者を出している高砂の豪商三浦家の出で、みちの父三浦松石は医者であり儒学者であり申義堂の教授であった。〉

 達吉の父については、こう紹介されている。

〈達吉の父秀芳は蘭方医で、幕末には申義堂の教授も勤め、明治26年には2代目高砂町長になった高砂の名士である。〉

 ぼくがいちばんびっくりしたのは、達吉の祖父が天保10年に「英賀屋善右衛門の借家」に住んでいたというくだりだ。
 英賀屋善右衛門はわが祖先である。
 こうして縁がまたつながった。
 英賀屋は「あがや」と読む。
 英賀(あが)は現在の姫路市飾磨区に位置する町で、わが先祖は英賀から高砂に流れてきて商人になったと伝えられている。
 1577年(天正5年)5月に、英賀の戦いと呼ばれる合戦があった。
 当時の播州は、西の毛利勢と東の織田勢がせめぎあう地だった。
 英賀の領主、三木道秋は毛利方についた。これにたいし、御着(ごちゃく)の小寺政職(こでら・まさもと)は織田に従う道を選んだ。その家臣が姫路に拠点を置いた小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田官兵衛[孝高])である。
 戦いは英賀の三木道秋が領内に毛利の小早川水軍を招き入れたことから生じた。大坂で石山本願寺の戦いがつづいていた時代である。小寺孝隆は奇襲攻撃によって、英賀に上陸したばかりの小早川水軍を破り、毛利側を撤退に追いこんだ。
 そのあと石山本願寺が信長に降伏し、播磨に羽柴秀吉がやってきて、中国攻めがはじまるのである。
英賀にあった城はどうなったのだろう。
 三木道秋は毛利の小早川水軍が撤退したあとも城を守っていたが、ついに1580年(天正8年)に落城の憂き目にあい、命からがら九州に落ちのびたという。その後、秀吉に許され、英賀の郷士頭となり、 1583年に50歳で亡くなっている。
 わが先祖はどうやら英賀の三木家に仕えていたものと思われる。高砂に流れてきたのは、おそらく江戸時代になってからだろう。そのとき、出身地の英賀をとって、あるいは秀吉と戦ったことを誇りとして、英賀屋を名乗ったのにちがいない。
 そのころ、加古川の河口で播磨灘に面する高砂は、姫路藩有数の商業地となっていた。加古川を通じて、播州米が集積されていた。
 町は人を引き寄せる。
 美濃部家は、現在の兵庫県北部にあたる但馬(たじま)の山名家に仕えていたのだという。
 山名家といえば、室町時代の守護大名で、応仁の乱のいっぽうの旗頭として知られる。しかし、江戸時代には衰え、わずかに但馬国七美郡(しつみぐん)6700石を領するにとどまっている。
 村岡(現香美町[かみちょう])に陣屋を構えていた。
 古い先祖をたどると美濃部家は甲賀武士に行きつくという。それがなぜ山名氏に仕えるようになり、寛政年間(1789〜1801)に村岡を離れて、播磨の海べりの町にやってきたのか、その理由はよくわからない。
 いずれにせよ、美濃部達吉の祖父にあたる秀軒が、1839年(天保10年)に、わが先祖、英賀屋善右衛門の借家に住んでいたことが記録に残っているらしい。秀軒も儒学者であり、同時に医者をなりわいとしていたのではないか。
 ここで申義堂(しんぎどう)という名前がでてくる。
 申義堂は姫路藩家老、河合道臣[寸翁(すんのう)]の建議により、文化年間(1804〜18年)に高砂町北本町に開設された学問所である。高砂町民の子弟に四書五経や春秋左氏伝を教えていた。
 閉校になったのは1871年(明治4年)7月というから、ほぼ60年にわたって高砂の教育機関をになったことになる。その出席簿には、わが先祖のひとりの名前も載っている。
 美濃部達吉の祖父、秀軒がここで教えていたかどうかは定かではないが、少なくとも父の秀芳が申義堂の最後の教授を勤めたことはまちがいない。
 秀芳は蘭方医である。ウィキペディアやいろんな本にも漢方医と書かれているが、それはあやまりだ。町でたったひとりの蘭方医だった。
 どこで蘭方を学んだかはわからない。大坂では緒方洪庵が適塾を開いていた。
 ぼくの父は英賀屋は米相場に失敗して倒産したといっていた。
おそらくそうではあるまい。幕末から維新にかけての多くの商人と同じく、人に貸していたカネが戻らず、商売のやりくりがいかなくなって倒産したのではないか。
 いずれにせよ、英賀屋は維新の荒波を乗り越えることができなかった。その後、アガヤという屋号で、高砂神社のそばで、ちいさな雑貨店(衣料品店)をいとなみ、父親の代に南本町に引っ越してきた。
 だが、江戸時代後半から昭和にいたるまで、英賀屋(アガヤ)は美濃部家から200メートルと離れていない場所にずっと位置していた。
 美濃部家のすぐ近くには工楽家がある。父は工楽家によく出入りして、工楽のおじいさんにかわいがってもらったという。
 工楽家を開いた工楽松右衛門(1743〜1812)は、北前船で用いられる帆を発明し、択捉に埠頭、箱館に船渠を築いた。
 工楽家は堀河に面している。ここから船を出せば播磨灘につながる。海から見れば、高砂の海岸には白砂青松がつらなっていた。
 そんな潮風の吹く町に美濃部達吉は生まれた。
 町にはすでに維新の荒波が押し寄せていた。

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