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美濃部達吉遠望(2) [美濃部達吉遠望]

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 1935年(昭和10年)2月25日、東京・内幸町の帝国議会議事堂では、貴族院の本会議が開かれていた。
 永田町に現在の国会議事堂が完成するのは翌1936年11月のことだ。
 そのため、この議事堂はいまでは仮議事堂と称される。二階建ての木造建築で、左右に翼を広げるようなかたちをしており、中央の玄関に加え、右側の貴族院と左側の衆議院の入り口にも玄関が設けられていた。
 この仮議事堂は1925年(大正14年)12月につくられた。同じ場所に建てられたそれまでの仮議事堂は二度にわたり火事で焼失している。
 現在、経済産業省となっているあたりが、仮議事堂のあった場所だ。
 この議事堂で、いま第67回帝国議会が開かれている。
 貴族院議長、近衛文麿の声が本会議場に響く。
「美濃部達吉君より、同君の言論につき過日当議場において議員より発言のありました問題について、一身上の弁明がいたしたいという申し出がございました、これを許すことにご異議ございませんか」
 異議なし、との声。
 そのあと、議長にうながされて、貴族院議員の美濃部達吉が演壇に立った。
 ゆっくりと、しかし力強く話しはじめる。

〈去る2月19日[正しくは18日]の本会議におきまして、菊池男爵その他の方から、私の著書のことにつきましてご発言がありましたにつき、ここに一言、一身上の弁明を試むるのやむを得ざるにいたりましたことは、私の深く遺憾とする所であります。
 菊池男爵は昨年65議会におきましても、私の著書のことを挙げられまして、かくのごとき思想を懐いている者は文官高等試験委員から追い払うがよろしいというような、激しい言葉をもって非難せられたのであります。
 今議会におきまして再び私の著書を挙げられまして、明白な反逆的思想であると言われ、謀反人であると言われました。また学匪(がくひ)であるとまで断言せられたのであります。
 日本臣民にとりまして反逆者である、謀反人であると言われまするのは侮辱この上もないことと存ずるのであります。また学問を専攻しております者にとって、学匪と言われますことは、等しく堪え難い侮辱であると存ずるのであります。
 私はかくのごとき言論が貴族院において、公の議場において公言せられまして、それが議長からの取り消しのご命令もなく看過せられますことが、はたして貴族院の品位のために許されうることであるかどうかを疑う者でありまするが、それはともかくといたしまして、貴族院において、貴族院のこの公の議場におきまして、かくのごとき侮辱を加えられましたことについては、私といたしまして、いかにいたしましてもそのままには黙過しがたいことと存ずるのであります。〉

 振り返れば、1週間前の2月18日、男爵で軍人出身の菊池武夫(陸軍予備中将)が、政府との質疑応答のなかで、次のように発言していた。
 憲法を解釈する著作のなかに、「皇国の国体を破壊するようなもの」がある。たとえば、末広厳太郎(すえひろ・いずたろう)、一木喜徳郎(いちき・きとくろう)、そして美濃部達吉の著作である。政府は、これらの著作を取り締まるべきではないか。
 皇道日本精神にもとづく国家改造を唱え、2年前に「日本精神協会」を設立した菊池は、爆弾発言をすることで知られていた。
 昨年の議会では、商工大臣の中島久万吉(くまきち)が雑誌に載せたエッセイで逆賊の足利尊氏を礼賛したのはけしからんとして、中島を辞任に追いこんでいる。
 菊池がまた何を言いだすか。議場には緊張が走った。
 菊池はふたたび末広や一木や美濃部の著作を取り上げて、糾弾する。

〈これは要するに憲法上、統治の主体が天皇にあらずして、国家にありとか、民にありとかいう、ドイツにそんなのが起こってからのことでございますが、その真似の本にすぎないのであります。
 わが国で憲法上、統治の主体が天皇にあるということを断然公言[否定]するような学者や著者というものが、司法の上から許されるべきものでございましょうか。これは緩慢なる謀反になり、明らかなる反逆になるのです。〉

 菊池の真のねらいは、達吉の師で当時枢密院議長を務めていた一木喜徳郎の追い落としだったという説もある。
 謀反とか反逆とかのきついことばを使って、菊池は美濃部らを攻撃した。相手を西洋かぶれと罵倒し、日本の国体が損なわれていると指摘するやり口は、論敵を葬るための、もっとも陰湿で狡猾な手段だった。それは、いまも昔も変わらない。
 菊池による美濃部攻撃はいまにはじまったわけではなかった。1934年2月の第65回帝国議会でも、菊池は直接名前を挙げなかったものの、(美濃部の)『憲法撮要』で唱えられている天皇機関説を信じている者は、文官高等試験の委員からはずすべきだと主張していた。いやしくも国家の高級官僚を選ぶ者のなかに、天皇機関説などを信じる者があってはならないというわけである。
 達吉はただちに『帝国大学新聞』で、こうした弁妄に反論した。
 菊池は天皇機関説を完全に誤解している。天皇機関説は天皇が国家の元首であり、その中枢機関たる位置におられることを正当とみなすもので、それはあたりまえの考え方だ。
 そして、菊池が公の議場で、天皇機関説を非難し、帝国大学と高等試験委員の名誉を毀損するのは、まったく根拠のない妄言にすぎないと論じていた。
 議会での菊池の妄言に、達吉はただちに新聞で反論した。
 だが、このとき達吉は議会で反論の機会を与えられなかった。
 菊池の主張も、中島久万吉の辞任問題が沸騰したあまりに、あいまいなまま放置されていた。
 ところが、1935年2月の議会で、菊池はまたも天皇機関説を取り上げ、文部省はこうした説をかかげている書籍を取り締まるべきだと迫ったのである。
 東京帝国大学教授の美濃部達吉は、1932年に貴族院議員に勅任されており、2年後の定年退官後も、引きつづき議員をつづけていた。
 美濃部らを学匪、謀反人、反逆者とののしる菊池の罵詈雑言(ばりぞうごん)に、温厚な達吉もさすがにがまんがならなくなる。このまま無教養な軍人の妄言を許していたのでは、帝国大学の沽券にもかかわる。
 こうして、美濃部はみずから「一身上の弁明」をしたいと貴族院に申し入れ、2月25日にその機会が設けられることになった。
「弁明」とはいえ、それは菊池がいかにでたらめかを証明することが目的なのはいうまでもない。
 その「弁明」は50分にわたってつづいた。
 とうとうたる講義に似たその演説に、議場は静まりかえった。

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