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明治の終末──美濃部達吉遠望(27) [美濃部達吉遠望]

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 日露戦争が終わったあと、美濃部達吉は東京帝国大学法科大学教授として、比較法制史の講座を受け持つとともに、1908年(明治41年)からは師の一木喜徳郎(いっき・きとくろう)の後任として、行政法第一講座を兼任するようになった。早稲田大学や日本大学、中央大学での講義も引きつづきおこなわれていた。
 次々と本も出版している。1907年(明治40年)11月には初の本格的憲法論となるはずの『日本国法学 上巻上』を有斐閣書房から出版、さらに翌年8月には同じ版元から『憲法及憲法史研究』を上梓、そして1909年(明治43年)から1916年(大正5年)にかけて、『日本行政法』全4巻を順次刊行している。なかなかの仕事ぶりといってよい。
 また、1911年(明治44年)には、文部省の委嘱を受け、中等学校教員夏期講習会で教員向けに憲法について10回にわたり講義した。それが翌年3月には本のかたちでまとまり、『憲法講話』と題して、有斐閣から公刊されている。これが達吉のもっとも知られる本となった。
 だが、その本は同時に天皇主権論者からの激しい攻撃にさらされる。達吉はその批判を堂々と受けて立つことになる。
 達吉がそんなふうに奮闘をつづけているあいだに、明治という時代は終わろうとしていた。そのたそがれは、どんなふうだったのだろうか。
 中村隆英の『明治大正史』を参考にしながら、日露戦争後の日本の様子をふり返ってみる。
 日露戦争前後から目立ってきたのは、社会主義者の動きだったという。社会主義者できわだっていたのは、幸徳秋水と堺利彦(枯川)である。片山潜や西川光二郎、安部磯雄などもいる。かれらの多くは平民社を拠点として活動をおこなっていた。そこに荒畑勝三(寒村)や大杉栄、管野スガらが加わっていった。
 社会主義といえば、その中心思想はマルクス主義である。だが、幸徳秋水や大杉栄はむしろアナーキズムに引かれていく。
 いっぽう、北輝次郎(一輝)は社会主義から出発しながらも、独自の天皇論と社会主義を結びつけ、アジア主義への道を歩もうとしていた。
 日露戦争後、こうした社会主義者の言論活動は次第に制限されるようになり、やがてかれらにとっては冬の時代が訪れることになる。
 明治末の大きなできごとといえば、やはり韓国併合と大逆事件を挙げないわけにはいかないだろう。
 1909年(明治42年)10月に伊藤博文がハルビンで安重根によって暗殺されたあと、明治政府は翌1910年8月に韓国を強引に併合した。それによって、日本は世界の「帝国」の仲間入りをすることになる。だが、韓国を領土にしたために、かえって面倒な問題が後から後からおこってくるのは必然だった。韓国については、日本は併合して失敗したという気がする、と中村は書いている。
 もうひとつの大逆事件は、ほんらい事件ともいえないような事件だった。その経過をいうと、幸徳秋水の思想的影響を受けた宮下太吉、新村忠雄、菅野スガ、古河力作の4人が大言壮語するうちに、天皇暗殺計画で盛りあがったのが始まりだった。そして、ためしにブリキ缶の爆弾をつくって、山のなかで実験したら、それが轟音を立てて爆発したため、警察の知るところとなった。この一件は、幸徳秋水ほか4人の逮捕では終わらなかった。警察による逮捕は、事件とは何の関係もない全国の社会主義者三十数人にもおよんだ。
 当時の刑法では、天皇とその直系皇族にたいし暗殺を企てた者は死刑とすると定められていた。この事件の裁判は1910年(明治43年)秋から大審院ではじまり、翌年1月、24名に死刑の判決が下った。そして、そのうち減刑となった12名を除いて、判決から1週間ほどで、12名が死刑となった。
 韓国併合と大逆事件はひとつの水脈でつながっていた。帝国への膨張が急速に進展するなか、天皇の神格化がますます強まろうとしていたのである。

 そんな明治の終末期を、美濃部達吉は日々あわただしい職務に追われるようにすごしている。
 現存国家への否定性を思想的原動力とする社会主義者からすれば、美濃部の学問はたしかに官学にちがいなかった。かれらにとって国家とはみずからを抑圧し強制する外部的存在にほかならなかった。そのような国家が変革されなければならないのは、理の当然だった。
 このころは社会主義の理想が信じられていた。絶対的理念をかかげる社会主義国家が閉じられた社会をつくるときの怖さをわれわれが知るのは、20世紀の終わりまで待たなければならないだろう。
 それはともかくとして、たとえ官学だったにせよ、いまからみれば美濃部の学が国家を法人としてとらえる新たな地平を有していたことはまちがいない。国家法人説はこれまでにない新しい国家論だった。
 法人は機関(組織)をもち、人によって成長するものである。法人としての国家は人が動かすものだという主張は、美濃部の講義を聞く、将来、国を担う若者たちに多くの希望を与えたのではないだろうか。
だが、そうした希望の前に、明治憲法体制が次第に重苦しい現実となって立ちふさがっていくことも事実だった。
 明治40年(1907年)11月、達吉はみずからの著書としては、はじめての国家論となる『日本国法学 上巻上』を刊行する。著書はみずからの師である穂積八束(ほづみ・やつか)と一木喜徳郎に捧げられた。穂積の学説は達吉とは相容れない。それでも穂積の名前を挙げたのは、かれが帝国憲法に興味をもつきっかけを与えてくれたからである。
 その序文に、達吉はおよそこう記している。口語に直してみた。

〈国法学(憲法学)は公法のどの学科でも、その発足点となり、その基礎学となるべきものだ。わたしは数年来、公務のかたわら、二三の私立大学の依頼を受けて、行政法を教えている。昨年[1906年]は版元の求めで仕方なく、その講義録を手直しして出版することになり、その誤りを訂正したり、自分の勉強のためにまとめようとしたりして、夏季休暇中に急いで原稿の手直しをした。だが、原稿ができあがって、これを印刷にかけようというときに、もういちどこれをじっくりと読んでみると、意に満たない点が多く、これを出版するのはためらわれ、版元にその旨を告げて、原稿をすべて廃棄してもらった。昨年の秋、版元が某紙上に拙著『日本行政法』の近刊を予告しながら、ついにこれを実現できなかったのは、こうした事情があったからである。〉

 イェリネックなどの最新学説を取り入れた達吉の憲法講義は人気があり、すでに早稲田大学出版部や日本大学から憲法講義録が出版されていた。この序文をみると、達吉はさらにこれらの私立大学で行政法の講義をこころみており、それをまとめて単行本にしようとする企画がある出版社(おそらく有斐閣)からもちこまれていたようだ。
 だが、原稿をまとめ終わり、印刷にかけようとした段階で、これではだめだという思いがわきあがったのにちがいない。大上段に『日本行政法』と題するには、あまりにも不十分な内容であることに気づいた。
 おそらく、そのころ東京帝国大学で1908年(明治41年)から、達吉が師の一木喜徳郎の第1行政法講座を引き継ぐことが決まっていたのだろう。そのことも出版をためらわせる動機になったのだと思われる。
 そこで、達吉は行政法の公刊をしばらく断念して、その前に行政法の前提となる国法学(および国家論)の編述に着手して、ようやくその一部を書き上げた。それを第1巻上冊として出版することにしたのである。
 序文はさらにこう記している。

〈本書は二巻で完結を予定している。第一巻では総論につづいて、領土、国民、君主および議会を論じ、第二巻では官制、自治制、官吏[公務員]法をはじめ、立法、司法および行政の各種の作用について論じる。せめて第一巻だけでも全部完了したうえで出版したかったが、総論編はことに困難な部分が多く、原稿を書きなおすこと再三におよび、脱稿まで意外と手間取ってしまった。だが、版元の要請がはなはだ急なため、やむなく総論編のみを分冊として出版することにした。……この二巻の編述を終われば、つづいて行政法の研究にしたがうことができるだろう。〉

『日本行政法』のゲラをボツにされた版元のうらみが伝わってくるようである。版元の編集者は『日本行政法』の出版を取りやめにした代わりに、別の著作を出版せよと迫っていたのだろう。
 ちなみに、ここで達吉が予告していた『日本国法学』の第一巻後半はもとより、第二巻後半もついに出版されることはなかった。売れっ子の達吉はあまりにも多忙だった。だが、たとえその続編が出されることはなかったとしても、その内容は別の著書に盛りこまれることになるから心配はいらない。むしろ『日本国法学』の価値は、達吉が国家とは何かを論じた「総論」にあるといってよいだろう。
 その総論において、達吉は国家の性質、国家と法、国家の連合、国家権力、国家機関、国体、国家の作用、憲法などに加えて、明治維新にいたるまでの国制の変遷、憲法を中心とする国法などを論じている。
 その全部を紹介するわけにはいかないが、特徴的な論点をいくつか取りあげてみることにしよう。

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