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田中首相解任──美濃部達吉遠望(55) [美濃部達吉遠望]

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 昭和天皇はお飾りではなかった。寡黙でもなかった。よくしゃべり、自分の意思をもち、喜怒哀楽も示した。だが、それがそのまま外部に伝わらなかったのは、天皇が明治憲法下では国家の最高機関だったからである。天皇の意思は個人としての意思ではなく、公の意思でなければならなかった。
 丸山眞男は政治思想史講義において、統治にかかわることばには「しろしめす」と「きこしめす」があって、しろしめすが支配し、おさめることだとすれば、きこしめすは臣下の奏上を聞くことだと話している。
 そして、天皇とは、臣下の「まつりごと」を「きこしめす」ことによって、「あめのした」を「しろしめす」存在だった。
 天皇は群臣からまつられる存在であって、みずから直接統治するのではなかった。天皇がまつるのは神々、すなわち天つ神、国つ神、皇室の祖霊である。みずからはあくまでも共同体の祭祀の統率者にとどまる。
 それが丸山のえがく日本の政治の「古層」である。この古層は日本が近代化されたあとも存続したという。
 明治憲法下においても、天皇は直接統治したわけではない。臣下のまつりごとを「きこしめす」こと、すなわち謁(えつ)を賜(たまわ)ることがもっとも重要な仕事だったといってよい。国務大臣をはじめとする臣下は天皇への内奏を求められていた。
 田中義一首相の「まつりごと」にたいして、昭和天皇は次第に不信感をつのらせていた。だが、天皇個人が「まつりごと」に直接関与することは許されない。
『昭和天皇実録』や伊藤之雄の『昭和天皇伝』などによると、天皇が6月4日の張作霖爆殺事件について、田中首相から上奏を受けたのは12月24日のことである。
 このとき田中は中国情勢とともに張作霖事件について説明したが、事件の詳細については白川義則陸軍大臣から上奏すると述べたにとどまっている。もちろん、この時点で、田中義一が張作霖爆殺が関東軍将校の仕業であることを知っていたことはいうまでもない。
 翌日、宮中の側近、すなわち牧野伸顕(内大臣)、一木喜徳郎(宮内大臣)、珍田捨巳(侍従長)、奈良武次(侍従武官長)、河合弥八(侍従次長)は、陸軍大臣の上奏にさいして、天皇がどのような言葉を賜うかをめぐって協議し、牧野はその結果を天皇に報告している。
 白川陸相は12月28日に天皇に拝謁し、張作霖爆死事件について調査を開始すると述べている。だが、何度もいうように、政府はすでに真相をつかんでいた。元老の西園寺公望や天皇側近も、爆殺がすでに関東軍の仕業であることをつかんでいた。
 1929年(昭和4年)にはいってからも、天皇には政府からなかなか調査結果が報告されない。田中首相と白川陸相はほぼ1週間おきに謁を賜っているというのに、事件については具体的な報告はなく、田中からはただいま調査中というのらりくらりとした返事が戻ってくるだけだった。
 白川陸相から天皇にことの真相が明かされたのは3月27日になってからである。それも天皇から強くうながされて、白川が答えた。
 事件は関東軍参謀、河本大作の単独発意によるものだが、事件の内容が外部に暴露されれば国家に不利な影響をおよぼすため、外部には公表せず、陸軍の軍紀粛正に努めたいという。この報告を受けて、天皇と側近は政府と軍の対応にますます不信を覚えた。
 決定的な瞬間が訪れたのは、6月27日である。この日の午後、天皇は御学問所で田中首相と会い、田中から張作霖爆殺事件については、犯人不明のまま警備責任者の行政処分のみをおこなうという報告を聞いた。
 天皇はこれにたいし、これまで厳正に対処すると述べていたのに、前と話がちがうと激しい口調で詰問し、田中に辞表をだしたらどうかとまで迫った。田中が弁明におよぼうとすると、天皇はその必要はない、とこれを退けた。
 翌日、田中は辞意を表明する。その結果、7月2日に民政党の浜口雄幸内閣が発足することになった。
 天皇による田中義一の事実上の解任は、もちろん天皇個人の意思によるものではない。元老の西園寺公望は懸念を示したが、天皇側近グループ、とりわけ牧野伸顕内大臣や、珍田捨巳の死去にともなって新たに就任した鈴木貫太郎侍従長、一木喜徳郎宮内大臣も田中の辞任やむなしの方向に傾いていた。
 ただ、牧野らは天皇がそこまで強く田中に辞任を迫るとは思っていなかった。そのことを天皇はのちに「若気の至り」だったと後悔している。
 田中が突然辞意を表明した理由については報道されなかった。貴族院からの弾劾があったり、内閣の人事や不戦条約をめぐるさまざまな不手際があったりして、とうとう辞任に追いこまれたというのが、世間の受け止め方だった。
 だが、この退任劇はあとに尾を引く。右翼や青年将校のあいだから、天皇の側近、重臣ブロック、すなわち君側の奸が政治をゆがめているという憶測を生むからである。

 田中義一内閣の政治運営が混乱をきわめているころ、美濃部達吉の関心は議会政治のあり方に向けられていた。
「選挙革正論」と題する論考の冒頭に、こう記している。

〈立憲政治は議会政治であり、而して議会政治は結局政党政治に帰するのほかないことは、政党を好むと好まざるとを問わず、何人も否定しえないところである。それはなぜかと言えば、議会政治は多数決政治であり、議会の多数を占むるためには集団的の力によるのほかなく、ことに国民的の選挙の競争において、多数の議員をかちうるには、集団的の力をもってするのほか、まったく不可能であるからである。〉

 立憲政治は議会政治であり、議会は多数決政治であって、それは政党政治によるほかなく、政党は選挙によって選ばれるという道筋が成り立つ。
 日本で立憲政治(憲政)が誕生したのは、1889年(明治22年)の憲法発布以来であり、本格的な政党政治がはじまったのは、ようやく原敬内閣(1918〜21)になってからだ。

〈しかし、かくして多年の闘争ののち、わずかに確立することを得た政党政治が、はたしてよく国民の満足を買いえたかと言えば、事実はほとんど正反対であった。最初のあいだこそは、薩長政府の陰鬱なる政治にたいし、政党政治の明るさを喜んだのであったが、政党政治に伴う新たなる弊害は、年を経るに従って、ますます顕著となり、国民は議会に対し、政党に対し、ほとんど絶望の感をなすに至った。〉

 とりわけ政党政治の弊害を露呈したのが田中義一内閣で、田中内閣の唯一の功績は「現在の制度のままでは政党政治の弊害が国民にとり実に耐えがたいものであることを明示したことにある」とまで、達吉は述べている。
 政党政治の弊害は選挙にカネがかかりすぎることだ。選挙で勝つためには、政党は資本家からカネを集めるほかない。政党にとっては、政権を掌握することが、資金を収得し、政党の存立を維持する絶対の要件となる。こうして二大政党による政権の争奪が激烈となる。
 政党政治の弊害を緩和するには、現行の選挙制度を革正するほかない、と達吉はいう。
いまの選挙はあまりにもカネがかかりすぎる。その結果、政権を握った政党は、政権を利権のために濫用し、支持者に便宜をはかって、けっきょくさまざまなスキャンダルを招くことになる。逆にカネがない無産政党などは国政に進出するのが困難になる。
 現在の選挙制度は政党にたいする国民の意向を反映しているとは思えない。地元の名士を議会に送りだす傾向になりがちで、国民がどのような政策を望んでいるかは、はなはだ不明確となってしまう。
 政党の腐敗を防ぐには国民の監視が必要だが、現在のような選挙制度では、いかに国民の信頼を失っても、選挙資金を多く持っている政党が有利ということになってしまう。
 現在の普通選挙には根本的欠点がある、と達吉はいう。
 人の価値は数では計れないはずなのに、選挙では数が勝敗の唯一の基準になってしまう。また、選挙人はほとんどが、政治や候補者のことをじゅうぶんに理解していない。選挙人が確固とした見解をもたないまま、不正な勢力に動かされやすいことも問題だ。
 普通選挙ではこうした欠点は避けがたい。だからといって、普通選挙をやめるべきではない。むしろ、その欠点をなくすために選挙の方式を変更することを達吉は提唱する。
 1928年(昭和3年)の普通選挙以来、日本では中選挙区制(大選挙区制の一種)の単記投票法がとられるようになった。この方法は少数党にやや有利とはいえ、選挙制度としてはけっして適切なものではない。
 その理由の一つは、選挙運動の費用が膨大なものになることである。各候補者は広い地域にわたって、票を獲得するために運動をくり広げなくてはならない。また、候補者が多くなるために、そのなかの一人を選択する基準が定めにくくなり、そのため人間関係や情誼、買収などに投票が左右されやすくなる。いっぽうで、投票に無関心になり、棄権する者も増えてくる。だれに投票してもたいして変わらないという気分が生じるのも問題である。死票が多いのも中選挙区単記投票法の欠点だといえる。
 こうした選挙制度をあらためないかぎり、政党政治の腐敗はなくならない、と達吉はいう。加えて、当時は政府与党を有利にするために、しばしば官憲による選挙干渉がおこなわれていた。
 こうした問題を解決するために、達吉はきわめて大胆な新選挙制度の導入を提案する。それが「名簿式比例代表法」である。
 名簿式比例代表法は政党本位の選挙制度である。政党は順位を定めて候補者を名簿に列記する。選挙人は個人に投票するのではなく、政党に投票する。選挙区は撤廃し、全国を一選挙区とする。そして、全国を通じて票数を計算し、各政党の票数に応じて、名簿にもとづき当選者の数を確定する。選挙は通常議会の閉会後およそ1カ月のあいだに、全国一斉に年1回おこなうものとする。
 達吉がこうした選挙制度を提案したのは、選挙費用を少なくし、選挙の腐敗をなくし、死票を減らすためだった。選挙では政策本位の選択が求められたといえるだろう。毎年、議会が終わるたびに、国民がいわば政党の成績を審査するという考え方はユニークだった。
 比例代表制は小党分立を促し、政局を常に不安定にするのではないかという批判は根強かった。だが、中選挙区制でもそれは変わらず、むしろ単一の政党が議会の絶対多数を占め、金力を背景に横暴な政治をおこなうことこそが問題だ、と達吉は論じた。
 政党が名簿によって候補者を届け出ることも、「公選」には抵触しない。なぜなら「政党に投票することは即ちその政党の提出した名簿に投票することであり、したがってその名簿に列記せられた候補者は等しく国民によって公選せられたものであることを失わない」と、達吉はいう。
 大選挙区(中選挙区)単記投票法は、政党政治の腐敗を誘う大きな原因であって、それを改善するためには、これに代わるべき方法として、名簿式比例代表法を選ぶほかないというのが達吉の考え方である。
達吉がモデルとしたのはドイツの選挙制度だった。だが、そのドイツでも政党政治はうまく機能しているとはいえない。ワイマール共和国では、比例代表選挙制のもと、国民社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチスが急速に勢力を伸ばそうとしていた。

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