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張作霖爆殺事件──美濃部達吉遠望(54) [美濃部達吉遠望]

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 1928年(昭和3年)6月4日、奉天軍閥の張作霖は奉天(現瀋陽)に戻る途中に、乗っていた列車を爆破され死亡した。
 爆破を指揮したのは関東軍の河本大作大佐で、世間にその実相が知られるようになるのは第二次世界大戦後である。政府はあくまでも国民党の国民革命軍の仕業だという見解を押し通していた。
 日本軍はそれまで馬賊出身の張作霖を満洲の軍閥として支持してきたから、その理屈はいちおう成り立つ。ところが、状況はすでに変化していた。
 それまでの中国革命の流れを整理しておこう。
 1911年の辛亥革命のあと、中華民国の総統となったのは、孫文ではなく袁世凱だった。その後、袁世凱はみずからの権力を強固なものにするため、南方の革命派を弾圧したため、中国は北京政府と南方政権に分裂した。
 1916年に袁世凱が死亡し、その部下の段祺瑞が北京政府の政権を握ると、中国各地では軍閥が台頭した。
 南方の孫文はソ連と連携、中国共産党と合作し、南北統一のため北伐をはかろうとする。しかし、志半ばにして、1925年3月に死亡した。
 その後、国民党は蒋介石を国民革命軍総司令に任命し、1926年7月から北伐を開始する。当面の目標は湖南、湖北を支配する呉佩孚(ごはいふ)、福建、浙江を支配する孫伝芳との戦いだった。
 北伐が成功するにつれ、汪兆銘を主席とする広州国民政府は、1926年12月に武漢に遷都し、武漢政府を開いた。
 いっぽう、しだいに武漢政府と対立するようになった蒋介石は、1927年4月12日に上海で反共クーデターをおこし、4月18日に南京国民政府を樹立する。
 こうして国民党は容共の武漢政府と反共の南京政府に分裂する。しかし、軍事的実力者の馮玉祥(ひょうぎょくしょう)の調停により、武漢、南京の両政府を南京国民政府に一体化することが決まった。国共合作を解消するいっぽうで、蒋介石の総司令職を解任することが条件だった。
 そこで、いったん下野した蒋介石は1927年9月から11月にかけて日本を訪問する。このとき11月5日に田中義一首相と会見している。
 田中は北伐への自重を求めつつも、反共主義の蒋介石を支持すると話した。日本が願うのは満洲の治安維持であり、日本はかならずしも張作霖を支援しているわけではないとも述べている。
 田中は蒋介石が南方にとどまり、共産党を抑えることに専念するよう求めたつもりだった。だが、蒋介石はそうは受け止めず、田中が北伐を容認するものとみた。
 中国に戻った蒋介石は1928年1月4日に、南京政府からふたたび国民革命軍総司令に任じられ、北伐の途につく。そのころ北京政府の実権は、表向き日本の支持する張作霖が握っていた。
 国民革命軍は4月はじめに山東省に達した。これにたいし、日本の田中首相は居留民保護を理由に4月17日に山東出兵を閣議決定する。日本は1922年のワシントン会議で山東省の領有を放棄するものの、山東省には多くの利権をかかえていた。
 5月3日、山東省の済南で北伐軍と日本軍が衝突する。日本軍は5月11日に済南を占領した。これにたいし、蒋介石は日本軍とのさらなる戦闘を避け、済南を迂回して北上する経路をとった。
 北伐軍が迫るなか、張作霖は北京を退き、奉天に撤退することを決意する。そして、6月3日に北京を離れ、京奉線で奉天に向かうが、その途中、4日午前5時半に、もうすぐ奉天という場所で列車を爆破され、死亡するのである。
 日本の新聞には「南方便衣隊」が埋設した爆弾が破裂し、張作霖が負傷(のちに死亡)したと報じられた。
 いまでは、張作霖を死亡させた爆弾は、満洲の完全掌握を狙って、関東軍の河本大作が仕掛けたものであることが判明している。しかし、当時、世間では北伐軍の便衣隊、すなわちゲリラ部隊の仕業だと信じられていた。
 政府は事件直後に真相をつかんでいた。だが、それは国家の利益を考えて秘匿され、公表されなかった。田中が昭和天皇に事件の真相を報告するのは12月24日になってからである。
 蒋介石は当初から張作霖の爆死を関東軍の仕業だと見抜いていた。国民革命軍は6月7日に北京に無血入城し、これにより北伐が完了した。さらに12月29日に張作霖の息子、張学良が国民政府の傘下にはいることを表明し、これにより蒋介石のもとで中国全土が統一された。
 関東軍の謀略は裏目に出て、かえって満洲の支配をあやうくさせた。そのことが1931年の満洲事変を引き起こすことになるのである。

 美濃部達吉は張作霖爆殺事件を論じていない。どうも関東軍の仕業らしいといううわさはあったものの、真相は闇のなかに隠されていたからである。
 中国情勢は風雲急を告げていた。しかし、驚くべきことに、そのころ議会でくり広げられていたのは、条約の文言をめぐる些末とも思えるやりとりだった。
 1928年(昭和3年)2月の総選挙後、議会では与野党の勢力が伯仲していた。4月23日に開かれた特別議会では、極端な選挙干渉があったとして、民政党などの野党が鈴木喜三郎内相への弾劾案を提出した。これがすったもんだの末、可決され、5月4日に鈴木が辞任している。治安維持法改正案が審議未了に終わったのは、こうしたごたごたがあったためである。
 議会閉会後も内閣改造をめぐって紛擾がつづいた。いっぽう野党の側では、8月に有力政治家の床次竹二郎が民政党から離脱し、新党を結成する騒ぎもあった(翌年、政友会に復帰)。
 外の嵐をよそに「コップのなかの嵐」が吹き荒れるという状況は、いまも昔も変わらない。
 そのころ浮上したのが「不戦条約」の文言をめぐる問題だった。
 ケロッグ=ブリアン協定とも呼ばれるこの条約は1928年4月13日にパリで作成された。ケロッグは米国務長官、ブリアンはフランスの外相。その後、8月27日に日米英独伊など15カ国が参加し、パリで不戦条約が調印される。最終的に63カ国が批准することになるこの条約は、締結国相互間の不戦を宣言したもので、パリ不戦条約と呼ばれる。
 その条約の第1条は、締約国は「人民の名において」国際紛争の解決手段を戦争に訴えず、締結国相互では国家政策手段の戦争を放棄するとうたっていた。ところが、日本国内では、その文言が大問題になる。「人民の名において」不戦を宣言するのは、天皇の大権を否認するものだという議論が巻き起こったのである。
 美濃部達吉は条約の原文にある「イン・ザ・ネームス・オブ・ザ・ピープル(in the names of the peoples)を「人民の名において」と訳したのが誤解を生んだのだと論じた。字義からいえば、これは「人民」というよりは国家全体の意思においてという意味であり、けっして天皇の条約締結の大権を否認するものではない。いわば翻訳の問題だというわけだ。
 だが、年末から開かれた議会では、野党の民政党が「人民の名において」という字句をしつこく取りあげて、政府攻撃の材料とした。
 田中首相はこれにたいし、条約は「人民の名において」ではなく、「人民のために」宣言したものだという見解を示して、ようやく議会の承認を得た。
 ところが、枢密院ではまた問題が蒸し返される。その結果、「人民の名において」という字句は日本においては適用されないという宣言を付すことで、不戦条約はようやく1929年(昭和4年)6月26日に枢密院を通過し、やっと批准されることになるのである。
 昭和初期の日本の政治的雰囲気を知るには、達吉が『現代憲政評論』に収めた「国体思想に基づく憲法論争」という一文を読んでみるのがよいのかもしれない。
 そのころから与野党を問わず、さまざまな集団や組織も、神格化された天皇、すなわち国体への忠誠度が、みずからのアイデンティティを示す尺度となりつつあった。それは東京帝国大学法学部教授の達吉自身も例外ではなかった。
 達吉はこう書いている。

〈コムミューニズムの思想がますます広く年若い読書階級の間に普及していくのに伴って、一方にはこれと反対の立場にある者の間には国粋主義ともいうべき思想がますます極端化して、それが政策の上にも社会事象の上にも著しく現れてきたことは、この数年来のわが国におけるもっとも顕著な現象の一つである。自分は三千年の歴史をもったわが君民一致の国体をもって世界に誇るべき日本のもっとも大なる長所となし、これを擁護することは国民のもっとも貴重なる義務であり、社会組織の改革がいかに必要であるにしても、それはただこの国体の基礎のもとにのみ実現せられうべきものなることを信ずることにおいて、世のいわゆる国粋主義者とその思想を一にする者である。しかしながら政府の当局にしても、また民間の有志にしても、実際に国体擁護のためと称して取っている手段は、往々にして常軌を逸し、ただにその目的に達しないのみならず、かえってその擁護せんと欲するものを危うするおそれあるものがあるのは、国家のために遺憾至極と言わねばならぬ。〉

 国体を守るべきことはいうまでもない。しかし、問題は、国体擁護のためと称する常軌を逸した思想と行動が横行していることだ。
 不戦条約の「人民の名において」という文言をめぐる天皇大権論争もそのひとつだった。国民の前に真相が明らかにされることのなかった満洲某重大事件もまた常軌を逸した動きにちがいなかった。
 さらに、政府は野党民政党を攻撃するために、民政党がその政治綱領に「議会中心政治」を掲げているのは、天皇中心の国体を破壊するものだと批判するようになっていた。
 これにたいし、達吉は議会中心政治は天皇中心政治を否定するものではなく、立憲政治の当然の帰趨だと、あらためて主張しないわけにはいかなかった。

〈議会中心政治の価値いかんについては、今や世界いたるところにこれを疑う声がすこぶる高い。その実際にこれを破壊しおわったものには、ソヴィエート・ロシアおよびイタリアの独裁政治がある。議会政治はもとより無条件に謳歌せらるべきものではないにしても、これを独裁政治の専横と陰鬱とに比して、なお大いなる長所を有することは疑いを容れぬ。われわれはただ努めてその弊を除くべく、みだりにこれを否定し、その破壊を企つることは、これを避けねばならぬ。いわんやこれをもって、わが国体に反するものとなすがごときにおいてをや。〉

 達吉はあくまでも議会政治を擁護し、それが進展することを願っていた。ドイツではまだヒトラーが政権を握っていない。しかし、世界では議会政治を否定するボリシェヴィズムとファシズムが勢いを増しつつあった。

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