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『儀礼としての消費』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 この本が読みづらいのは内容もさることながら、翻訳のひどさが関係しているのかもしれない。加えて、ぼくの頭がわるいことをつけ加えれば、たちまち三拍子そろった投げだし本候補になる。
 しかし、読みはじめたからには意地である。どこまで読めるかはわからないが、できるかぎり先まで進んでみる。
 著者は消費を人類学的に定義すればどうなるかと問うている。
 経済学は消費が消費者による商品(財)の自由な選択であり、消費そのものは市場の終わったところではじまると規定している。つまり、消費者は自由に商品を選び、商品を自由に消費するということだ。これは取引にもとづいて商品の所有権が移転されたあと、あらたな所有者によって商品が自由に使用されることを意味している。
 だが、商品には文化が刻印されている。その文化は伝統であるとともに常に変化しつづけている。「消費こそは、文化をめぐる闘いが繰り広げられ、文化が形をとっていく闘技場である」と著者はいう。そのとおりだろう。
 どのような商品を選ぶかは各個人や家庭の自由であり、それはどのような文化を選ぶかということでもある。ちょっとふりかえってみるだけでいい。食品にかぎらず、テレビやパソコン、本、スマホ、車、電車、保険、医者、ジム等々、われわれは日々さまざまな商品を選んでいる。
 どのような商品を選ぶか、あるいは選ばないかは、常に変動しつづける文化(および技術)を受け入れるか、受け入れないのかを決定することでもある。われわれは商品(「もの」と「こと」)を選択的に買いつづけることによって自分たちなりの「文化生活」を営んでいるといってもいい。
 文化のなかには売り買いしてはいけないものもある。それは商品化できない価値だ。たとえば投票用紙、政治的地位、親や子ども、にせ商品などなど。もし、それを売ったら、道徳的非難や法的制裁を免れないだろう。
 おカネとは別に贈与の領域も存在する。贈与もまた消費に結びつくかもしれない。だが、それはあきらかに商品の生産、流通、消費からなる商品世界からはみだした領域である。
 とはいえ、商品世界以前を含めて人類社会全体を考えても、やはり物質的な財が文化を構成し、社会関係をつくり、維持するものであることはまちがいない、と著者はいう。
 たとえば南スーダンのヌエル族(ヌアー族)は多くの家畜を所有している。家畜は家族の財産であって、相続や結婚などのさいに受け渡されたり、屠られたりするだいじな財なのだ。このことをみても、財は単に欲求を満たす手段ではなく、社会関係をつくり、維持する手段であることがわかる、と著者はいう。
 こうした人類学的認識を現代社会に適応することは可能だろうか。
 そのためには財の有用性という考え方をひとまず棚に上げて、財を言語と同じように人間の創造力のもたらした媒介と考えてみたらどうだろうか、と著者は提案する。
 財と言語が同じだという発想はおもしろい。言語が受け継がれた文化の膨大な蓄積をもとに、いまも更新されつづけるコミュニケーション・ツールだとするなら、人類にとって、財もまた地球の物質をもとにつくりつづけられ、交換されるコミュニケーション・ツールではないかというのである。
 社会には慣習があり、ルールがある。人類学はこれを「儀礼」と呼んでいる。この儀礼を無視して、人は社会のなかで生活していけない。
 著者はこう書いている。

〈財は儀礼の付属物にほかならない。消費とは、その主要な機能が所与の出来事の流れに意味を付与することにあるような、一つの儀礼の過程である。〉

 こむずかしいことを書いている。財(商品)は儀礼の付属物というのは、財は文化習慣にもとづいて購入され、そろえられるという意味だ。
 考えてみれば、儀礼(文化的習慣)は、それこそいくつもある。正月、成人式、入学式、花見、夏休み、祭礼、結婚式、葬儀など、人生はいくつもの儀礼に満ちている。儀礼を全般的な文化習慣として理解すれば、日常の食事や洗濯、掃除、家の修理、読書やレジャー、その他もろもろも儀礼である。
 そこに付属物としての財(やサービス)が加わる。さらに財(やサービス)は、消費されることによって、儀礼や習慣に意味を付与する。すなわちハレとケからなる日々を祝福することになるのである。
 ここで著者は儀礼、すなわち文化的習慣は、じつに固着的で根強いと指摘している。それはカレンダー、すなわち時節や季節、さらには周期とともに動いていく。
 もっとも、文化的、社会的習慣が強固に存在するからといって、人は習慣に従わず、そこから離れて、自由な行動と私的な楽しみを選ぶこともできる、と著者はいう。だが、それもまた何かの刺激によって、新たな文化が選択されているのかもしれない。また、それと気づかない部分に「記憶の儀礼」がはたらいている可能性もあるという。
 個人が新たな慣習を創出し、それを社会的レベルにまで拡張しようとしたら、新たな慣習にしたがう仲間を増やしていく必要がある。著者はそうした例として、イングランドで「ガイ・フォークスの祭」(冬の花火で大騒ぎ)が盛んになり、「ハロウィーン」がすたれたこと、クリスマスが盛んになって新年は影が薄くなったことなどを挙げている。
 とはいえ、伝統はやはり根強く、人類学で広く知られるポトラッチ(首長が富をばらまく祭)にしても、そのリーダーが「村の首長」から金持ちの「平民の人間」に代わるのは容易ではないという。
 このあたりの記述はややこしい。要するに、新たな慣習が生まれ、新たな消費が公共化するまでには、長い時間と働きかけが必要になるというのである(すると明治の文明開化や戦後の高度成長はどう考えればいいのだろうか)。
 さらに読み進めてみよう。
 著者は、消費財(商品)は単なるメッセージではなく、情報システムそのものからなる、とも述べている。ここでいうメッセージとは価格とか用途のことだ。これにたいし情報は文化の伝達にかかわっている。情報は読み解かれねばならない何か、すなわち文化である。
 もはや財を物質的財と精神的財に区別するのは無意味になっている。たとえば食べ物や飲み物を味わうことは、単に肉体的な経験ではなく精神的な経験でもある。食事はその献立から作法にいたるまで、社会や家庭の文化であり、技術なのだといってもよい。
 さらに、ここでマーキングという概念が持ちこまれる。マーキングとは「しるし」をつけることだ。商品には「しるし」がつけられている。たとえば、これはプラダのバッグだとか、これは村上春樹の本だとか。それによって商品は差別化されて、消費者の選択を待つことになる。
 おカネを払って「もの」や「こと」(すなわち商品)を選んだ人のあいだには、タイガーズの試合を見るために甲子園球場に足を運んだときのように(これはぼくの勝手なたとえだが)、熱狂的な共感が生まれるかもしれない。そのことをみても、消費には単なる財の個人的消化にとどまらず、文化的コミュニケーションが含まれていることがわかる。
「財のいかなる選択も文化の結果であるとともに文化に寄与するものである」というわけだ。
 商品の選択には、文化的なセンスをともなう。文化とは何も上流文化だけをさすわけではない。大衆文化も存在するだろう。人びとは情報の海のなかで、商品を選択し、みずからにとって、できるだけ好ましい立場を築きあげようとする。
「消費者はマーキング活動をやりとりするために財を必要とする」と、著者は書いている。これは必ずしも見せびらかしや見栄の張り合いと同じではない。ほかの人にどう見られ、どういう印象を与えるかは大きな問題である。
 羨望と競い合いは人間の救いがたい本性で、それが消費を促していることは疑いない。とはいえ、個人や集団には内に閉じこもろうとする傾向もある。貴族たちはそれによって特権集団を維持しようとしてきた。
 閉鎖集団は族内結婚によって、アウトサイダーを締めだす。そのさい、消費慣習は排除のための武器となる。「共有された文化は共有された自然へと形を変える」というわけだ。
いっぽう、上流階級に食いこもうとする人びとは洗練された消費慣習を身につけようとする。だが、閉鎖的な集団に食いこむにはたいへんな努力を必要とする。
 人類学的な消費理論は、財を情報ととらえ、より高度な財をもつ階層が他の階層を排除するものととらえる。いっぽう、排除された階層のなかからは上流階層に侵入しようとする動きも認められる。
財をめぐる需要、すなわち消費は、単なる欲求の満足や羨望によるものではなく、権力と特権を手に入れ、それを維持するための活動でもある、と著者はいう。
 おカネを前にして、消費は形式的には平等である。いまは大衆社会にちがいない。それでも「下層階級と比べ、上流の家庭は社会的階層組織の中にあって、互いにいっそう緊密に結びつく傾向にあり、はるかに広い社会的ネットワークの中にいる」と著者はいう。
 経済学は個々人による合理的な選択を消費理論の前提としている。しかし、じっさいには個人は抽象的な個人ではありえず、それぞれの社会階級に属しながら、かなり傾向の異なる消費活動をおこなっているのだ。
 商品(財)が情報システムだとすれば、上流階級、中産階級、労働者階級では、それぞれの社会的接触によって手に入る情報は階級ごとにかなり異なる。高い稼得能力は、情報をコントロールしうる能力でもある。社会的接触を失い、機会から切り離され、隔離された者には、どんづまりの職しか与えられない、と著者はいう。
 これは厳しい現実だと言わねばならない。著者は、だからといって、金持ちは金持ちらしく、貧乏人は貧乏人らしく生活すればいいといっているわけではない。だが、現に社会階層が存在し、そこに排除の論理がはたらき、階層によって消費のスタイルが異なっているのは事実である。これは商品世界を考えるうえで、けっして無視されてはならないことだ、と著者は考えている。

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