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ヴィンチ村に──イタリア夏の旅日記(11) [旅]

8月17日(木)
 夜中、電話が鳴ったので目が覚める。相手がわからなかったので出なかった。朝起きるとメールが入っていた。日本で片づけなければならない要件ができてしまった。イタリアに来て、2週間以上。そろそろ帰り支度をしなければならない。
 ここシエナでも、両親や妹さんがらみのこまごまとした要件があり、いつまでもおじゃましているわけにはいかなくなってきた。今回の訪問では建築中の家がなかなかできあがらないため、引っ越しも手伝えず、何の役にも立てなかった。
 昼、マテオがキャンティ・ワインの製造元に連れていってくれる。シエナから車で15分ほど。ここでテイスティグ・ランチをとろうというわけだ。
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 カステリーナ・イン・キャンティにあるCasale dello Sparviero という名前の蔵元だ。カザーレ・デッロ・スパルヴィエロと読むのだろうか。訳すと「ハイタカの農家」。
 ワインやオリーブを売っているだけでなく、アグリツーリズモ(農村民泊)の宿も兼ねているようだ。もとは修道院で、それを貴族が買い取り、いまは多角経営をしている。
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 キャンティのブドウ畑を眺めながら、庭で3種のワインをテイスティングする。残念ながら、ぼくにはワインの味のちがいがよくわからない。ともかく3種のワインを飲みながら、チーズとハム、パンをいただく。
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 樽が並んでいる部屋も見せてもらった。
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 それからカステリーナ・イン・キャンティの丘の町に寄り、抜群にうまいジェラートを食べ、帰宅した。
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 ユウキは一緒に行かず、家でゲームばかりしている。夕方、突然どしゃぶりの雨が降り、そのあと、うそのように晴れる。
 この日ものんびりしたいい一日だった。

8月18日(金)
 いつものように爽やかな朝。青い空に赤いシエナ色の屋根が美しい。昼前、思い立ってミワの運転でヴィンチ村に行くことにした。ここはレオナルド・ダヴィンチが生まれた場所だ。レオナルド・ダヴィンチは、ヴィンチ(村)のレオナルドにほかならない。
 きょう、マテオは病院の会議があって行けないが、めずらしくユウキがつきあってくれた。
 シエナの家からは1時間20分ほどの場所だ。途中、ポジボンシ、チェルタルド、エンポリなどを通過。チェルタルドを通ったとき、ユウキが「ここは『デカメロン』の作者、ボッカッチョが生まれたところだ」と教えてくれる。ちょっと嬉しくなった。
 ヴィンチ村に到着し、坂に車を停めて、まずは城のなかにある博物館を見に行く。
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 階段を上ったところに、ダヴィンチと何やら中国の老師が並んでいる銅像を見かけた。これはいったいだれ? 
 あとで調べてみると斉白石(せいはくせき、1864〜1957)という人だとわかる。何でも現代中国画の巨匠だそうだ。制作したのは呉為山という人で、彫刻は「時空を超えた対話」を意味しているとか。いずれにせよ中国の国際交流の輪が広がっていることを実感する。
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 城の広場には、オリーブ畑を背に、ダヴィンチの人体図模型が置かれていた。この模型は、人体の寸法が円と正方形に収まるものとして、ダヴィンチがえがいた図像にもとづく。
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 その原図も示しておこう。絵の人物はダヴィンチ本人がモデルだともいわれる。
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 城のなかの博物館にはダヴィンチが構想した発明品の数々が木製品化され、所狭しと展示されていた。じっくり見れば理解できたのかもしれないが、それがどういう装置なのか、ぱっと見だけではよくわからない。からくり仕掛けのようにみえてしまう。
 しかし、説明をみると、ひとつがレオナルドの構想した走行距離計、もうひとつが掘削機の模型であることがわかる。
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 これはたぶんダヴィンチの構想した円形戦車の模型だ。
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 これも実用化までこぎつけなかったが、空を飛ぶ道具も考案していた。
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 城のてっぺんからは村全体を一望することができた。レオナルドはこの村で12歳まですごし、父が公証人としてはたらく花の都フィレンツェに出て、そこで絵の描き方を学ぶことになる。
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 バールで軽いランチ。そのあと、もうひとつ博物館を見る。そこには人体解剖図や筋肉のデッサンなどが展示されていた。
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 数々の発明とその図を元にした模型、解剖図などをみると、レオナルドがいかに天才だったかがわかる。それよりも感激だったのは、孫のユウキがそのひとつひとつを英語で解説してくれたことだ。
外は35度以上あると思われる猛烈な暑さだが、博物館のなかは多少なりとも涼しい。まだ時間があるので、われわれはレオナルドが生まれた家へ向かった。
 その家は村からは3キロほど奥まった小高い場所にあった。部屋は3つしかない、小さな家だ。その土間では、ダヴィンチの生涯が映像で紹介されていた。
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 レオナルドが村外れのこの小さな家で生まれたのには理由がある。かれは婚外子だったのである。
 ヴィンチ村の名士の息子で、フィレンツェで公証人としてはたらく父ピエロは帰省したときに16歳の農家の娘カテリーナと恋におちいり、そのあいだに生まれたのがレオナルドだった。
 ピエロには社会的に釣り合いのとれた婚約者がおり、レオナルドが生まれてしばらくしてから、実母のカテリーナは村の農夫兼レンガ職人と結婚する。そして、ピエロも結婚し、レオナルドは父方の実家に引き取られ、祖父母や父の弟と、明るい家庭で健康に育った。父と一緒にフィレンツェにいる血のつながらない母とも関係は良好だったという。
 しかし、非嫡出子であるため、父の職業である公証人を継げなかった。そのことは、かえって幸いだったともいえる。
 父のアドバイスと後援もあって、12歳でレオナルドはフィレンツェに出て、画家として知られるヴェロッキオの工房にはいり、そこでたちまち才能を発揮する。そして、画家としてだけではなく、自由な科学者としてルネサンスの時代を駆け抜けることになる。
 そのことを知ったのはあとのことだ。ダヴィンチの生家を訪れたときは、何でこんな辺鄙なところで生まれたのだろうと首をかしげるばかりだった。
 そろそろヴィンチ村ともお別れだ。
 夕方5時半ごろ、シエナの家に戻る。連日のもてなしには感謝のことばしかない。
 翌日は家の大掃除を手伝い、いよいよ帰国の準備をした。これでしばらくミワとマテオ、ユウキともお別れだ。

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