最後の晩餐──イタリア夏の旅日記(13) [旅]
8月22日(火)〜24日(木)
われわれの泊まったホテルは、ミラノ中央駅から歩いてすぐのところにあった。
朝、ミラノ中央駅で地下鉄の切符を買い、M2でカドルナ駅まで行き、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に向かった。「地球の歩き方」の地図にしたがって歩くと、教会の後陣(アプス)がみえてくる。四角と円形を組み合わせた優雅な建物だ。レンガ色とクリーム色の構成も悪くない。気持ちが落ち着く。
ここにやってきたのは、この教会の大食堂にえがかれたレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」をみるためだ。見学には予約が必要で、その時間も15分と限られている。幸い、日本からネットで予約をとることができたので、チケット売場に並ぶ必要はない。
教会の正面にやってくる。横にはトラム(路面電車)が走っている。国旗の立っているクリーム色の建物が「最後の晩餐」のえがかれた修道院大食堂の入り口だ。
予約時間まで少し間があったので、教会のなかを見学する。ここにも人の心を楽しませてくれるルネサンスの空間が広がっていた。
時間になった。30人ほどが建物のなかにはいり、案内されるままに控えの部屋に通され、ついに最後の自動ドアが開かれる。そして、その北側の壁に、「最後の晩餐」があらわれた。たいしたことはあるまいとタカをくくっていたぼくも感動を覚えた。なぜか心を吸いこまれるような絵だった。この感じは実物を見ないとわからない。
フラッシュをたかなければ写真をとってもいいというので、われわれもご多分にもれず、絵に近づいて写真を撮らせてもらった。だが、プロではない悲しさ。あとで眺めると絵の深みがいまひとつ伝わってこない。
作品の詳しい説明は不要だろう。まさにイエスが十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の一場面がえがかれている。
イエスが集まった弟子たちに「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」と告げると、弟子たちのあいだにさざ波のように動揺が広がっていく。
人物の仕草からは心の様子までが伝わってくる。イエスの左側3番目のユダはテーブルに肱をついたまま、右手に銀貨を握りしめている。すぐ左のヨハネは悲しそうにうなだれている。右側には何やら議論する弟子たちも。
イエスは穏やかで、すでに諦観した表情をしている。12人の弟子たち、それぞれについて、もっと詳しく知っていれば、絵を鑑賞する視点はもっと深まるだろう。だが、残念ながら、ぼくにその知識がない。
『最後の晩餐』は、ミラノ大公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼で、1495年から97年にかけてえがかれた。レオナルドのいつもながらの遅筆ぶりに苛立った修道院長がミラノ大公に苦情を訴えたとき、宮廷に呼ばれたレオナルドはこう答えたという。
キリストとユダの顔がなかなか決まらない。修道院長が作業をせかすようなら、ユダの顔のモデルを修道院長にしてもよいのだが……。
これには修道院長がうろたえ、ミラノ大公は大笑いし、それ以降、修道院長はレオナルドの仕事に口を出さないようになったとか。
南側の壁にえがかれた、十字架にかけられたキリストの絵も、なかなか見応えがある。このふたつの絵に囲まれて修道士たちは、さぞかし敬虔な面持ちで沈黙を守ったまま食事をしていたのだろう。そう思うと、ちょっと笑えてくるのは、ぼくの不謹慎だ。
見学時間の15分はあっという間にすぎていった。いささか厳粛な面持ちで、部屋をでる。もし神が幻想でしかないとしたら、イエスは何を信じようとしていたのかという思いが渦巻く。これも東洋的無神論者の勝手な思いにすぎない。
これでミラノにやってきた目的は達したようなものだ。あとは、明日マルペンサ空港からチューリヒ空港をへて、日本に帰るまでの時間をどうすごすかである。
せっかくミラノにいるのだからと、まずは近くのスファルツァ城まで歩いていった。
城内の広場をぐるっと回ったあと、ピエタ美術館にはいり、ミケランジェロが89歳で死ぬ直前まで手がけていたピエタ像をみる。ヴァチカンのピエタ像は息を呑むほど美しいが、この像はそれとはだいぶちがう。途中での断念は何を意味したのだろう。それでも、この像からは老いた母の悲しみと慈しみが伝わってくる。母を思わないわけにはいかない。
昼近くになって、城を後にする。イタリア統一の立役者ガリバルディの像が立っている。
どこで食事をとるか迷ったが、けっきょく、延々と歩いて、ミラノを代表するアーケード、「ガッレリア」までやってくる。
20年ほど前に来たときと変わらない相変わらずのにぎわいだ。コロナが明けたことを実感する。
リストランテではピザとパスタを頼み、ついでにビールとワインを飲んだだけだが、お値段は相当なものだった。
夕方まで、まだ時間はある。ガッレリアを出る前に、もう一度、光の差しこむガラスの天井を写真に収める。
ガッレリアを出ると、すぐにレオナルド・ダヴィンチ像が立つ広場と出会う。
その広場の前にあるのがスカラ座だ。いまはオフシーズンのせいか閑散としている。
そのあと、お定まりのようにドゥオモまでやってきた。昔は自由にドゥオモのなかにはいれたのだが、いまは入場券を買わなければならない。チケット売場の列に並んだところで、どっと疲れがでて、ふたりとも顔を見合わせて、もういいかという話になった。そこで、ドゥオモ見学はとりやめに。
猛暑のなか、地下鉄でミラノ中央駅まで戻り、夜食用のすしを駅地下のコンビニで買って、ホテルの部屋に倒れこんだ。
こうして、われわれは熱中症にもならず無事ミラノ見学を終え、翌日ミラノの空港から1日がかりで日本に戻ってきた。帰りの飛行機は、ロシア上空を避け、南回りで、ブルガリア、トルコ、中央アジア、中国の上空を通過し、成田に朝9時半ごろ到着。
コロナ禍を乗り越えて4年ぶりの海外旅行だった。アメリカもギリシアもイランもオーストラリアも行ってないし、中国も50年行ってないと考えると、まだまだ行きたい場所は残っているが、はたしてあといくつ行けるか。残り時間は風の吹くままにということだろう。
われわれの泊まったホテルは、ミラノ中央駅から歩いてすぐのところにあった。
朝、ミラノ中央駅で地下鉄の切符を買い、M2でカドルナ駅まで行き、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に向かった。「地球の歩き方」の地図にしたがって歩くと、教会の後陣(アプス)がみえてくる。四角と円形を組み合わせた優雅な建物だ。レンガ色とクリーム色の構成も悪くない。気持ちが落ち着く。
ここにやってきたのは、この教会の大食堂にえがかれたレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」をみるためだ。見学には予約が必要で、その時間も15分と限られている。幸い、日本からネットで予約をとることができたので、チケット売場に並ぶ必要はない。
教会の正面にやってくる。横にはトラム(路面電車)が走っている。国旗の立っているクリーム色の建物が「最後の晩餐」のえがかれた修道院大食堂の入り口だ。
予約時間まで少し間があったので、教会のなかを見学する。ここにも人の心を楽しませてくれるルネサンスの空間が広がっていた。
時間になった。30人ほどが建物のなかにはいり、案内されるままに控えの部屋に通され、ついに最後の自動ドアが開かれる。そして、その北側の壁に、「最後の晩餐」があらわれた。たいしたことはあるまいとタカをくくっていたぼくも感動を覚えた。なぜか心を吸いこまれるような絵だった。この感じは実物を見ないとわからない。
フラッシュをたかなければ写真をとってもいいというので、われわれもご多分にもれず、絵に近づいて写真を撮らせてもらった。だが、プロではない悲しさ。あとで眺めると絵の深みがいまひとつ伝わってこない。
作品の詳しい説明は不要だろう。まさにイエスが十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の一場面がえがかれている。
イエスが集まった弟子たちに「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」と告げると、弟子たちのあいだにさざ波のように動揺が広がっていく。
人物の仕草からは心の様子までが伝わってくる。イエスの左側3番目のユダはテーブルに肱をついたまま、右手に銀貨を握りしめている。すぐ左のヨハネは悲しそうにうなだれている。右側には何やら議論する弟子たちも。
イエスは穏やかで、すでに諦観した表情をしている。12人の弟子たち、それぞれについて、もっと詳しく知っていれば、絵を鑑賞する視点はもっと深まるだろう。だが、残念ながら、ぼくにその知識がない。
『最後の晩餐』は、ミラノ大公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼で、1495年から97年にかけてえがかれた。レオナルドのいつもながらの遅筆ぶりに苛立った修道院長がミラノ大公に苦情を訴えたとき、宮廷に呼ばれたレオナルドはこう答えたという。
キリストとユダの顔がなかなか決まらない。修道院長が作業をせかすようなら、ユダの顔のモデルを修道院長にしてもよいのだが……。
これには修道院長がうろたえ、ミラノ大公は大笑いし、それ以降、修道院長はレオナルドの仕事に口を出さないようになったとか。
南側の壁にえがかれた、十字架にかけられたキリストの絵も、なかなか見応えがある。このふたつの絵に囲まれて修道士たちは、さぞかし敬虔な面持ちで沈黙を守ったまま食事をしていたのだろう。そう思うと、ちょっと笑えてくるのは、ぼくの不謹慎だ。
見学時間の15分はあっという間にすぎていった。いささか厳粛な面持ちで、部屋をでる。もし神が幻想でしかないとしたら、イエスは何を信じようとしていたのかという思いが渦巻く。これも東洋的無神論者の勝手な思いにすぎない。
これでミラノにやってきた目的は達したようなものだ。あとは、明日マルペンサ空港からチューリヒ空港をへて、日本に帰るまでの時間をどうすごすかである。
せっかくミラノにいるのだからと、まずは近くのスファルツァ城まで歩いていった。
城内の広場をぐるっと回ったあと、ピエタ美術館にはいり、ミケランジェロが89歳で死ぬ直前まで手がけていたピエタ像をみる。ヴァチカンのピエタ像は息を呑むほど美しいが、この像はそれとはだいぶちがう。途中での断念は何を意味したのだろう。それでも、この像からは老いた母の悲しみと慈しみが伝わってくる。母を思わないわけにはいかない。
昼近くになって、城を後にする。イタリア統一の立役者ガリバルディの像が立っている。
どこで食事をとるか迷ったが、けっきょく、延々と歩いて、ミラノを代表するアーケード、「ガッレリア」までやってくる。
20年ほど前に来たときと変わらない相変わらずのにぎわいだ。コロナが明けたことを実感する。
リストランテではピザとパスタを頼み、ついでにビールとワインを飲んだだけだが、お値段は相当なものだった。
夕方まで、まだ時間はある。ガッレリアを出る前に、もう一度、光の差しこむガラスの天井を写真に収める。
ガッレリアを出ると、すぐにレオナルド・ダヴィンチ像が立つ広場と出会う。
その広場の前にあるのがスカラ座だ。いまはオフシーズンのせいか閑散としている。
そのあと、お定まりのようにドゥオモまでやってきた。昔は自由にドゥオモのなかにはいれたのだが、いまは入場券を買わなければならない。チケット売場の列に並んだところで、どっと疲れがでて、ふたりとも顔を見合わせて、もういいかという話になった。そこで、ドゥオモ見学はとりやめに。
猛暑のなか、地下鉄でミラノ中央駅まで戻り、夜食用のすしを駅地下のコンビニで買って、ホテルの部屋に倒れこんだ。
こうして、われわれは熱中症にもならず無事ミラノ見学を終え、翌日ミラノの空港から1日がかりで日本に戻ってきた。帰りの飛行機は、ロシア上空を避け、南回りで、ブルガリア、トルコ、中央アジア、中国の上空を通過し、成田に朝9時半ごろ到着。
コロナ禍を乗り越えて4年ぶりの海外旅行だった。アメリカもギリシアもイランもオーストラリアも行ってないし、中国も50年行ってないと考えると、まだまだ行きたい場所は残っているが、はたしてあといくつ行けるか。残り時間は風の吹くままにということだろう。
2023-12-04 06:11
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