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『儀礼としての消費』を読む(5) [商品世界論ノート]

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 日常生活を営むうえで必須となる、労力を含む財が貨幣によってしか手に入らない世界を商品世界と名づけるならば、そうした商品世界が生まれたのは、19世紀以降といっていいだろう。もちろん、それ以前にも貨幣は存在し、貨幣が存在するところには商品もあったから、歴史的にみると商品世界の発生ははるか古代にさかのぼる。
 だが、それが近代の商品世界と異なるのは、近代以前においては貨幣と商品があくまでも非日常的で特別の授与物であり、日常生活からは相対的に切り離されていた点にある。しかし、近代になるにしたがって、貨幣と商品は次第に日常生活に浸透し、いまや貨幣と商品がなければ、日常生活が営めない時代となった。生産と消費が分離され、貨幣によってしか媒介されないのが商品世界の特徴だともいえる。
 著者のメアリー・ダグラスはここで野生(未開)社会と商品世界の比較をもちだしている。
 カリフォルニア州北部太平洋岸には先住民のユロック族がいる。1920年代にまとめられたその民族誌によると、かれらは村落集団をつくり、漁と狩りで暮らし、貝殻貨幣による財のやりとりをおこなっていた。統治機構はなく首長もいない。親類や仲間で暮らし、豊かな人も貧しい人もいる。貨幣がともなうのは結婚のときである。殺人や姦通にたいする代償も貨幣で支払われる。儀式では高い価値をもつ財が見せびらかされるように用いられる。ユロック族の人口は5つの村を合わせて600人ほどだ(現在はもう少し増えている)。
 ユロック族の日々の生活は漁や狩猟、採集による食べ物、そのための道具、さらには医療、住まいの整備などによって営まれる。これらはみずからの努力に加えて、親戚や仲間との協力によって確保される。貨幣が支払われるとすれば医療ぐらいのものである。
 ところが、宝物となると話は別になる。黒曜石の首飾り、珍しい毛皮、色鮮やかな羽根、ボートなど、これらは貝殻貨幣によってしか取引されない。そのため、人びとはこぞって貝殻貨幣を蓄積していた。
 財は日常的な財と非日常的な財に分かれている。そして、使われる頻度は少ないけれど、より立派な非日常的な財をもつ者こそが、その社会での影響力をもつ存在とみなされたのだ。ユロック族は自由な社会をつくっていたが、それでも富は均等に分配されていたわけではない。宝物をもつ金持ちは最初から優位な立場にあった、と著者はいう。
 ナイジェリアのティブ族は長老たちによって支配されていた。長老たちの最大の役割は、村を監督することと結婚を取り決めることだった。
 ここでの財も、家事用の財と威信にかかわる財にわかれていた。
 農地で生産されるヤムイモやシコクビエ、モロコシ、飼われているヤギやヒツジ、犬、鶏、それに、ものを運んだり貯めたりする籠や壺、鍬などの道具は、家事用の財である。これにたいし、金属の棒や布、銃、奴隷などは威信を示す財となった。こうした威信財は戦争か交易によってしか手に入らず、若者たちはこうした宝を手に入れることで名声を得、長老へとのしあがった。
 日常財と威信財とのあいだに交換関係は存在しない。威信財をもつ者は政治的に優位な立場を確保し、村の情報を制御し、女たちを統制することができた。ティブ族のあいだでは、婚姻は商取引とは無縁で、嫁資などというものは軽蔑されていた。ヨーロッパから貨幣が到来するまでは、こうした社会システムが維持されていたという。
 未開社会では、流通(商品取引)が制限されている。ナイジェリアのハウサ族はイスラム教徒で、女性は隔離状態に置かれ、外での仕事といえば、食事にかかわるものくらいだった。女性たちは輸入されたカラフルな壺や椀などを熱狂的に収集することがある。だが、それらは日常品というのではなく、宝として手元にとどめられ、自分の娘や養女が結婚するときに分け与えられる。こうした宝は、女性たちにとっての威信財なのである。
 宝は社会的信用ともつながっている。宝の収集は飽くことを知らなかった。しかも、それらは最新の流行や高度の専門化をあらわすもので、いわばブランド品でなければならなかった。
 ハウサ族の女性たちが収拾したのはチェコスロバキア製の釉薬のかかった壺に限られていた。トロブリアンド島のクラ交易で受け入れられる品目も、赤い貝殻の数珠と白い貝殻の腕輪だけだった。こうして未開社会においても、消費は単に欲求の充足をめざすだけでなく、威信の発揮と結びついていたことがわかる、と著者はいう。
 ここでの目的は未開社会も現代社会も人の消費行動は変わらないことを示すことになる。現代社会を批判する視座として未開社会をもちだしているわけではない点は理解しておく必要があるだろう。
 そのため、部族社会においても消費の格差があり、排除の力がはたらいていることを指摘したあと、著者はそれは現代の社会、国際関係でも同じだと述べることになる。
 現在、産業活動は3つの部門に分けられるのが通例になっている。第1次産業は農業、林業、漁業、第2次産業は鉱業、製造業、建設業、第3次産業は商業、運輸、金融、サービス業というように。
経済発展にともない、労働人口は第1次産業部門から第2次、第3次産業部門へと移行し、現在、先進国では第3次部門が最大の雇用割合を占めるようになっている。
 著者は産業部門のアナロジーから、家計も3つの水準にわけられるという定式を導きだす。
 第1の水準は食べることに追われ、それがやっとの段階。第2の水準は労働節約的な用具が導入され、家計に新しい技術が備わった段階。第3の水準は、掃除にしろ料理にしろ家での仕事がさまざまなサービスに委ねられ、家計の消費が衣食住だけではなく、教育やレジャー、保険、金融にまで広がっている段階だ。
 第2次世界大戦前と後をくらべると、イギリスでも労働者階級の実質所得は高くなった。それでも、所得格差はなくなっていないし、労働人口の大きな割合が低賃金労働に甘んじている。さらに、貧富の格差は所得や富の格差にとどまらず、いわば生活様式そのもののちがいとなってあらわれている。
 ひとつの国のなかに社会階級が厳然と存在するように、国際関係においても豊かな国と貧しい国の格差が存在する。その格差は経済の活動規模の大きさにもとづく。
 著者はいう。

〈最も豊かな国々は、輸出品の販路も生産パターンも最も多様化されており、最大のサーヴィス部門(金融・研究・教育・管理などを含む)を持っている。最も貧しい国々は、ほとんどの場合、たった一つの生産物、それもたいていは効率の低い農業に、全エネルギーを注ぎ込んでいる。〉

 開発途上国では農業部門の生産性が低く、そのため人口の大部分が土地に縛りつけられ、非農業部門の成長する余地が残されていない。そのため、先進国と開発途上国とのギャップはますます広がりつづける。それは一国内における豊かな世帯と貧しい世帯の関係と同じだという。
 消費者は個人として財を選択するわけではない。みずからの属する階層にふさわしく、みずからが置かれた社会関係のなかで財を選択する。貧困の問題は、生活者が孤立し、そうした社会関係と情報システムからさえも切り離されてしまうことにある、と著者は考えている。
 ここで、著者は消費が産業連関によって広がっていくことを示そうとする。
 産業が連関することはよく知られている。たとえばマレーシアでは1次産品(ゴム、スズ、パーム油)の輸出が軽工業を生みだす要因となった。それと同じように、新しい技術が産業連関を通じて、新たな消費を生みだしていく、と著者は考える。
 1948年から1970年にかけ、イギリスでは電力の消費者が増え、電力消費量が増えた。これは、都市人口の増大と新技術の普及(テレビ、冷蔵庫、掃除機、洗濯機、エアコンなど)にともなう現象である。これは技術と消費の連関が実現されたケースだという。
 社会と消費の連関もみられる。旅行や電話、レジャー、社交、さまざまな行事のための支出は、技術というよりも、世間とのかかわりと関係している。社会的な消費は、家族内から世代間、地域へと広がっていく。とはいえ、その消費には、社会階級のランクによるちがいがみられる。
 さらに社会と消費の連関でいえば、移住が社会的孤立をもたらす場合もあるけれども、血縁集団から切り離されて、新たな地域共同体に暮らすことが、別の利点をもたらす場合も多いという。よりよい所得と生活条件が与えられる地域で暮らせるようになるなら、まちがいなく消費能力は向上し、物質的生活水準が向上する。逆に地域に閉じこもってしまうなら、強い集団的アイデンティティから抜けだすことができず、低い消費水準に甘んじてしまうケースもある。
 最後に情報と消費の連関がある。
 労働者階級のあいだでも、パブの仲間どうしのつき合いが情報を得る重要な手段となっている。得られた情報のもたらす報酬が大きいほど、それを得るためにいっそう多くの時間と資源を支出することが正当化される。
 とはいえ、概して規模の利益を得ることができるのは、いちばん有利な立場にある者だ。専門的情報への接近は、社会階級のランクによって異なっており、ここには一種の障壁が築かれていることを認めざるをえない、と著者はいう。
 ハイランクの社会階級の消費が、より大きな利益をもたらす情報と結びついているという話は腹立たしいが、これも商品世界の現実なのだろう。
 著者はこう書いている。
 開発途上国においては、消費階級ははっきりと3つの層に分かれる。まず大地主・支配者階級があり、次に農民がつづき、最後に土地のない労働者となる。これらの階級がみずからの立場に応じて、財(商品)のセットを使っている。
 これにたいし、先進国の場合は社会構造の区分けがむずかしく、もっと漠然としている。職業と所得に応じたグループ分けはある程度有効だが、富そのものは評価しにくく、職業分類もあてにならない。
 ここで著者は先進国の消費パターンを探るために、商品を3つのセットに分類する。(1)第1次生産物のセット、(2)技術的なセット、(3)情報関係のセット。(1)が食品、(2)が耐久消費財、(3)が教育や教養、社交などに代表されることはいうまでもない。
低レベルの消費階層では、支出の多くが食品に向けられ、中レベルでは食品の割合が相対的に下がって、耐久消費財が購入され、高レベルでは食品の割合がさらに下がって、より値段の高い耐久消費財が購入され、情報関係の商品により関心が向けられることがわかる。
 低レベルと高レベルの消費のちがいは、あきらかに所得に制約されている。とはいえ、すべての商品(サービス)がすべての人に開かれているのが身分制社会とのちがいだ。だれもが医者にかかったり、ゴルフをしたり、スポーツを見学したり、コンサートを楽しんだりすることができるからである。
 とはいえ、所得は仕事内容や職業と結びついており、所得の高い階層はより高度な消費活動を実現する。消費にはランクづけされたヒエラルキーがある。彼らは人より豊かであることによって需要をリードし、活動に価値を与える、と著者はいう。つまり、消費階級は厳然と存在するといってよい。
 消費階級は職業にほぼ対応する。職業としては、管理・経営職、専門・技術職、教育者がほとんどトップの階級を占める。事務職や営業職がこれにつづき、熟練労働者、肉体労働者、無職者の順に階級が形成される。
 ここで著者は自動車と電話、銀行口座を財のサンプルとして持ちだし、1973年段階の消費階級のヒエラルキーを分類する。高い階級は自動車も電話も銀行口座ももっている。これにたいし、階級が低くなるにつれて、そうしたセットをもたない家計が増えてくる。ここにみられる消費パターンのひらきをみても、消費にもとづく階級構造が存在することが実証できる、と著者はいう。
 トップの消費階級には、低い消費階級にたいする強い排他性がみられる。所得の大きさは、食べ物から服装、住まい、家具、装飾にいたるすみずみにまで反映される。しかし、その排他性は先端的な消費をリードするもので、下層階級にとっても憧れの的となり、それが大衆文化に変容し、次第に広がっていくことも、著者は認めている。
 さらに著者は、専門職階級のほとんどが電話をもつのに、労働者階級の多くが電話をもたない(いっぽうテレビはどの階級ももっている)のはなぜかという興味深い問いを発し、「貧しい人はいつでも時間を持ち合わせているけれども、それを使ってなすべきことは豊かな人より少ない」という結論に達している。電話はコミュニケーション・ツールだが(その点、スマホは遊びの道具として進化した)、労働者階級の多くはそうしたものを無駄とみているというわけだ。こうした指摘をはたしてどうとらえるべきだろうか。いずれにしても電話(あるいはスマホ)という商品が消費学の大きな対象となりうることを示唆している点はおもしろい。
 貧しい人びとは、その生活条件によって長期的な視野をもつことができないとも書いている。時間がないわけではなく、時間は浪費されているというのだ。これにたいし、カネのある有閑階級は、多くの空き時間を必死に埋めようと、熱に浮かされたように突進しているという。このように社会階級によって、時間の過ごし方は大いに異なる。
 官僚組織にせよ、第3次産業にせよ、その管理と財務には費用節約的な技術革新の余地がたぶんに残されている。
 芸術も第3次産業の部門である。ここに入り込むには、名前の定まった人びとの列に挑戦し、新しいアートに置き換えなければならない。新たな流行を作りだすためには、競り合いに勝って、ゲームをスピードアップする必要がある。そうした競り合いのなかで、トップ階級と最下位階級とのあいだのランクはますます広がっていくことになる。
 消費には熱力学の法則が成り立ち、熱源のエネルギーがいくつもの仕切りを突破して徐々に広がっていく、というたとえも持ちだされている。その広がりは富の分布に応じながら、少しずつ世界を変容させていく。
 その熱源となるのは変動しつづける技術である、と著者はいう。さらに、そこには資源の要素を組み込まなければならない。
 われわれは社会階級の存在を意識しなければならない。豊かな特権階級に注目するだけで、貧しい人びとがどのように生活しているかを知らなければ、厳密な消費理論など築けるわけがない、と著者は述べている。
 ここには商品世界にたいする鋭い批判はみられない。商品世界の生みだすさまざまな軋轢、おカネでは解決できない問題の指摘、さらに脱商品世界に向けての構想が述べられているわけでもない。それでも、これまで人類が普遍的に築いてきた、財(商品)の世界の構造を冷静にとらえることの重要性を本書は指摘しているのである。


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