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ポール・ジョンソン『現代史』をめぐって(2)──大世紀末パレード(9) [大世紀末パレード]

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 引きつづきポール・ジョンソンの『現代史』を再読しながら、1980年代を振り返ってみる。
 前回は宗教について論じたが、いつの時代も変わらぬテーマとしては、人口問題と食糧問題がある。いずれも歴史を動かす大きな要因にはちがいない。
 世界人口は1900年に12億6200万人。それが1950年には約25億、60年に30億、75年に40億、87年に50億、99年に60億、2011年に70億、2022年に80億となった。その増加率は次第に低くなっているが、世界の人口はまだまだ増えていきそうだ。
 ここでジョンソンは「人口変移説」なるものをもちだしている。
 第1段階では、医学と公衆衛生により、乳児死亡率と感染症死亡率が下がって、人口が急速に増加する。第2段階では、生活水準の向上が出生率を下げる。ところが、第1段階から第2段階に移行する途中で、危機が生じて、政治が過激化することが多いというのだ。
 ジョンソンは現代の課題は、世界全体を第2段階へと移行させることだという。そのためには発展途上国の経済成長率を改善し、生活水準の向上をはからねばならない。インドはまだ懸念があるものの、中国の人口は安定してきた。しかし、アフリカでは、まだ大きく人口が増えつづけている状況だ。
 食糧問題に関しては、1945年以降、科学的な農法が導入されたことにより、1980年代には米国、カナダ、オーストラリア、アルゼンチン、西ヨーロッパで膨大な食糧余剰が生まれた。これにたいしソ連はもとより、ソ連型の集団農場体制をとる国の農業は、概してうまくいかなかった。1980年代に食糧自給を達成したのは、ソ連型農業を鵜呑みにしなかった中国とインドだけだという。
「マルクス主義的集産主義の農業への影響は、その魔力のとりこになった第三世界諸国のほとんどすべてに悲惨な結果をもたらした」とジョンソンはいう。ここで例として挙げられるのは、イラク、シリア、イラン、ビルマ(ミャンマー)、ガーナ、タンザニア、モザンビーク、チャド、スーダン、エチオピア、エリトリア、ソマリアなどである。なかには干魃と飢餓による国内不安が内戦や隣国との戦争を招いたケースもある。
 アフリカの優等生だったコートジボワール、ケニア、マラウイなども80年代には深刻な経済的困難と社会不安に襲われ、リベリアは3つの私兵軍団に引き裂かれて、激しい内戦におちいり、民衆は餓えに苦しむことになった。
 しかし、重要な変化をみせたのは南アフリカ共和国だ。1989年以降、南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離政策)に別れを告げた。南アは世界の縮図だ、とジョンソンはいう。1990年段階で、南アでの白人と非白人の比率は1対6で、これは世界での比率と等しい。しかも、ここでは第一世界の経済と第三世界の経済が併存している。その国がどうなっていくか注目すべきだとしている。
 だが、経済面において、もっとも注目すべき地域は、東アジアの企業国家群、すなわち日本、香港(イギリスの直轄地)、シンガポール、台湾、韓国であり、とりわけ日本だったと述べている。この時点で、巨大な中国は経済的にはまだ恐るべき存在とはなっていない。
 ジョンソンによれば、日本の経済発展を支えたのは新憲法だった。

〈マッカーサー司令部で作成された1947年の新憲法は、最大公約数の合意にもとづく政党間の妥協の産物ではなかった、英米憲法の長所を統合した均質な概念の上にたち、行政と司法、中央集権と地方分権のあいだの中庸をめざして巧みに舵を取っている。自由な労働組合、出版の自由、警察の民主化(軍備に類するものは撤廃された)を保障した他の占領諸法規と相まって、新憲法と、そこに具現される「アメリカの時代」は、国家がそれまで日本国民に対して行使していた抗しがたい支配力を粉砕することに成功した。アメリカの日本占領は、戦後の全時期にわたるアメリカの対外政策のなかで、おそらく最大の建設的業績だろう。〉

 この見方には異論があるかもしれない。複雑な思いをもつ人もいるだろう。だが、西洋の歴史家に戦後日本が「アメリカの時代」になったと意識されていることは否定しがたいのである。
 占領改革をへて、日本は1953年に戦後復興をはたす。そして、その後、20年間の高度成長期にはいる。自動車、時計、テレビ、カメラの生産量でアメリカを追い越し、世界の先頭をいく工業大国となった。先進技術分野でも躍進は著しかった。
 1980年代になると、金融部門でも大躍進をとげ、やがて世界最大の金融大国となった。アメリカの貿易赤字と財政赤字を支えたのは日本である。80年代末の段階で「日本はすでに世界第二の経済大国として、ソ連をはるかに追い抜いており、先端技術、最新設備、そして教育と訓練に多額の投資を続けていた」。
 ジョンソンは1970年代から80年代にかけ、日本の賃金率がどの先進国よりも速く上昇し、しかも失業率がきわめて低かったことに注目している。労働組合の役割は大きかったが、そこには日本ならではのユニークな企業風土も存在した。

〈日本ならではのユニークな、またおそらく現代世界へのもっとも創造的な貢献は、企業が商品を人間と見立てる考え方に立ち、集産主義[つまり命令型]とはちがって新しく家族主義的な経営を導入したことである。それにより階級闘争の破滅的な衝撃を減らすことができた。〉

 世界じゅうで「日本的経営」がもてはやされた時代である。
 経済が発展したのは日本だけではない。やがて、市場経済の刺激は太平洋地域全体に広がっていく。韓国、台湾、香港、シンガポール、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンへと。そして、ついに中国が覚醒し、潮目が変わる。それを先導した日本の役割は大きい、とジョンソンはみている。
 太平洋地域の東岸ではチリの経済発展がめざましかった。チリは戦後、根強いインフレに悩まされつづけていた。1970年には社会主義者のサルバドル・アジェンデが大統領となるが、その足元では左翼陣営が分裂し、対立を繰り返していた。アジェンデが政権の座についてもインフレは収まらないどころか、超インフレとなった。1973年9月、国じゅうが混乱するなか、軍のアウグスト・ピノチェト将軍がクーデターをおこし、政権の座につく。すざまじい弾圧がつづく。
 それでもジョンソンはピノチェト政権の功績を認めている。それはインフレを押さえこみ、経済を成長の軌道に乗せたことだ。しかし、経済が成長し、市場の自由が強まるにつれて、政治的な自由が求められるようになる。1983年6月には政権に抗議する全国的な暴動がおこり、89年12月の国民投票で、ピノチェトは退陣し、独裁政治に終止符が打たれる。民主主義回復後に発表された公式報告では、1973年から89年にかけ、政治警察により1068人が殺され、957人が「行方不明」になったことがあきらかになった。
 この時期、アジアでも独裁政権が立て続けに崩壊している。フィリピンでは1986年にマルコス政権が崩壊し、台湾では1988年に国民党独裁体制が崩れて、李登輝政権が生まれ、韓国では1990年に長い民主化闘争の末、金泳三による文民政権が発足している。
 こうした流れは、市場の自由を求める世界的な経済の動きとけっして無縁ではなかった、とジョンソンはみている。

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