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中野重治と政治(1) [われらの時代]

【連載47】
中野重治が魯迅について書いた文章が好きだ。
改行を増やしながら、引用してみる。
長くなるが、熟読玩味する価値はある。
〈私は、学者とか研究者といったものではないから、ただ一人の読者として魯迅を読む。一人の日本人として魯迅を読む。また一人の文学の仕事をするものとして魯迅を読む。
読んで何を感じるかといえば、自分もまたいい人間になろう、自分もまたまっすぐな人間になろう、どうしてもなろう、という、漱石を読んだ場合と同じものをむろん感じるが、もう少しちがったものをも同時に私は感じるように思う。
それを説明することはむずかしい。かえって誤解されかねぬという懸念も生じてくる。けれども、それを言っていては切りがないから、あえて説明するとすれば、それは、自分もまたいい人間になろう、自分もまた、どんなことがあってもまっすぐな人間になろう、という以上に出て、自分もまた、日本の民衆のために応分につくそう、日本の労働者と農民とのために働こう、沖縄人(おきなわびと)をふくめた日本民族の独立のために任務を引きうけて奮闘しよう、そのためには、一身の利害、利己ということを振りすてて、圧迫や困難、陰謀家たちの奸計に出くわしても、それを凌いでどこまでも進もう、孤立して包囲されても戦おう、という気に自然になる。そこへ行く。
つまり、政治的な戦いの感奮ということになる。人間的に非常に深い感動を受けるのではあるが、それが、人間的な感動というところに止(とど)まらない。進んで悪と戦おうというところへくる。悪をにくむというところへくる。
いくさにこちらが勝たぬまでも、政治的には相手に烙印しずにはいられない、烙印しずにはおかぬぞというところへくる。人間的なものをとおして、政治的な感動へ読むものをみちびく点、ここに魯迅の、すくなくとも私の場合の基本的性格があるように私が思う〉
この重戦車のような文体には、中野重治の人柄がそっくりそのままにじみでている。
中野重治は1902年生まれ。
戦前、「お前は歌うな、赤まんまの花を歌うな」という詩を書くころから政治運動に飛びこみ、治安維持法違反で逮捕され、「転向」を余儀なくされながらも、芸術的抵抗をつづけた。
戦後、1945年11月に日本共産党に入党、47年から50年まで参議院議員、49年から61年まで新日本文学会書記長、事務局長を務める。
50年ごろから党内抗争にもまれるようになり、58年以降、中央委員となるが、64年に党の方針を批判し、除名される。
共産党を除名されるまでの党とのかかわりを描いた長編小説『甲乙丙丁』は69年に出版され、野間文芸賞を受賞した。
1979年、胆嚢がんのため77歳で死亡。

ぼくは中野重治のよい読者とはいえない。
最晩年の『沓掛筆記』は読んだような気がするが、あまり覚えていない。
佐多稲子が中野の病室を描いた『夏の栞(しおり)』も深く理解するにはおよばなかった。
『レーニン素人の読み方』も読んでいない。
『甲乙丙丁』は重苦しすぎるような気がして、いまも本棚に差したままの状態から抜けだせないでいる。
だから、上の引用も経歴も松下裕の『評伝中野重治』にもとづいている。
それでも中野重治の姿勢は、魯迅に触れた上の評論から、ずしんと伝わってくる。
中野の変わらぬ姿勢、それは「いい人間」「まっすぐな人間」になって、「日本の労働者と農民とのために働こう、沖縄人(おきなわびと)をふくめた日本民族の独立のために任務を引きうけて奮闘しよう」という一途な精神に支えられていた。

松下裕によると、中野が共産党指導部を批判し、結果的に共産党を除名されることになるのは、かれが共産党の「オブローモフ主義」に懸念を覚えたためではないか、という。
小説『甲乙丙丁』について、松下はこう書いている。
〈「甲乙丙丁」の扱っている時期は、1964年3月のある日から5月初旬のある日までの2カ月間である。この期間には、4月8日、日本共産党中央委員会幹部会が、4月17日に予定されていた公労協のストライキに反対し、このストライキは政府の弾圧を招く挑発的な陰謀だと声明を出して、各地の労働組合にストライキの闘争方針をめぐる対立がおこるという大きな政治的事件を含んでいる〉
共産党中央はなぜストライキを抑えようとしたのか。
松下は中野がここに一種のオブローモフ主義を見たのではないかと考える。
オブローモフとは、全体を見渡すために木の上にのぼった指導者(たち)を寓意している。
オブローモフたちは人びとにその眼力を信頼されて、木にのぼるが、だんだんと木の上が居心地よくなり、下に向かって弁舌さわやかにしゃべり続けるものの、けっしてもう下には下りようとしなくなる。
ところが下で待っている人びとは「沼にはまりこみ、蛇にかまれ、爬虫類をおそれながら、枝で顔を傷だらけにしている」。
これがオブローモフ主義だ。
政治を道としてとらえていた中野には、党幹部のおちいったオブローモフ主義ががまんならなかった。
中野重治と政治について、もう少し考えてみる。


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