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中野重治と政治(2) [われらの時代]

【連載48】
中野重治の最後のまとまった仕事は、1973年に筑摩書房から発行された『レーニン素人の読み方』だった。
中野はレーニンをどのようにとらえていたのだろう。
〈レーニンは、私において絶対に神聖だった。私が馬鹿をしたときもそれはそうだった。そしてそうである。死ぬまでそうであるだろう。……気持ちの上で、私はこの人に密接しているだろう。密接──人がふふんといって笑おうと知ったことではない。私はこの人を心から尊敬している。私自身の資格は問わない。この人を愛している〉
中野重治が、ある小説(「アードレル海水浴場の写真師」)の登場人物に託したこの言葉は、中野自身の偽らざる気持ちだった、と『評伝中野重治』の著者、松下裕は書いている。
これは出世や保身のためにする個人崇拝とは、ちょっとちがう。
自分の生き方の目標とでもいえばいいのだろうか。

松下によれば、中野がレーニンにいだいたイメージ、それはゴーリキーが描いたレーニンの像に重なっている。
長くなるが、ゴーリキーのエッセイを、改行を増やしながら引用しておこう。
〈彼は労働する人びとに好意や共感を起こさせずにはおかない一種の磁力を持っていた。
 彼はイタリア語こそ話さなかったが、シャリヤピン〔有名なオペラ歌手〕やその他のロシアの大物たちを少なからず見てきたカプリの漁師たちは、独特の勘で、たちまちレーニンに重きを置くようになった。
 彼の笑いはほれぼれするほどのものだった。──彼は人びとのまぬけた愚行やら、こすからいかけひきやらを見やぶることにかけてはこの上ない熟練者だったが、子どものような「純真さ」を失わない「心からの」笑いである[笑い方をした]。
 年とった漁師のジョヴァンニ・スパダーロは彼のことをこう言った。
「あんなふうに笑えるのは、心のきれいな人間だけだよ」
 空のように青く透き通った波の上で、小舟に揺られながら、「指さきで」──竿なしに釣り糸で魚を釣ることをレーニンは教わった。
 指にぴんと来たら引くんだ、と漁師たちが教える。
「コシー、ドリン・ドリン、カピーシ?」(こうだよ、ぴくぴく、わかるかね)
 すぐに手ごたえがあった。
 彼は引きよせながら、子どものような喜びの声をあげた。
「やあ、ドリン・ドリンだ!」
 漁師たちも子どものように嬉しげにどっと笑いくずれて、釣り師のことをこう呼んだ。
「シニョール・ドリン・ドリン」と。
 彼が発っていったあとも、彼らはあいかわらずたずねるのだった。
「どうしてるね。シニョール・ドリン・ドリンは。ツァーリにつかまりはしないかね」〉

レーニンがナポリの先に浮かぶカプリ島で遊んでいたとは知らなかった。
ゴーリキーの描くレーニンは、チェ・ゲバラのようにかっこいい。
そして、中野重治もこういうレーニン像を政治家の理想として愛した。
ぼくは、その肖像などから、レーニンを権力の奪取に全精力を傾ける、熱情的で、しかしどこか冷徹な革命家だと思い込んでいた。
しかし、ゴーリキーのとらえるレーニンは、大きな声でよく笑い、周りを笑いの渦に巻き込む愉快な人物だったように思えてくる。
たしか中沢新一の『はじまりのレーニン』も、笑う人レーニンについて書いていたような気がする。
レーニンに感じるのは、強い自信(確信)である。
およそ自信などというものとは縁のないぼくなどには、彼の自信がどこからわき出してくるのか、理解しがたい。
たぶん彼の笑いは、みなぎる自信によって裏づけられている。

そして、中野重治も信念の革命家だった。
『レーニン素人の読み方』の後半は、日本共産党のいわゆる「自主独立」路線の批判にあてられているという。
そのあたりのことを「評伝」で、松下裕はこう書いている。
〈これらの変貌のすべてを宮本顕治が領導したのであったろう。日本共産党は、いわばインタナショナリズムからナショナリズムへと転換した。そうでなかったとしたら、ソヴェト連邦の崩壊、ソ連共産党の壊滅にあたって、その追随者として危急存亡のきわに立たされ、その後の存続はありえなかったかもしれない。
 それを宮本の功績とする見方はありえるだろう。中野重治のほうはこの時期にいっそうソヴェト連邦への心情的な傾斜をふかめ、生涯信念としてきたインタナショナリズムへの執着をつよめていった。その結果が、ソ連のチェコスロヴァキア侵攻への支持だったろう。(中略)……
 これらの論文の発表当時、日本共産党の現状批判よりも、レーニン論文そのものの読み方のほうに論点をうつしてほしいという読者の感想は少なくなかった。また評判も必ずしもよくはなかったと思うが、いま読み返してみると、前三分の一の随想部分よりも、あとの、この日本共産党の動向の具体的批判の部分が、日本での社会主義の現状と未来をさぐるうえで興味ぶかくもあり有益でもあると思う。
 中野重治その人は、ソヴェト連邦崩壊の10年以上も前の1979年に生を終えた〉
中野の信念は誤っていたかもしれない。
しかし、それを誤っていたと言い切るには、こちらにもそれなりの信念なり覚悟なりが必要である。


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