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オオカミの民俗学 [柳田国男の昭和]

《連載13》
 柳田国男が収集したのは、蛇をめぐる語彙だけではない。
 蜘蛛(クモ)、あるいは蚕や蟻(アリ)、蟷螂(とうろう、カマキリ)、蟻地獄(アリジゴク)の方言も集めている。のちに『西は何方(どっち)』という単行本にまとめられる語彙分布の研究は、いずれも里の回りにいる身近な動物を取り上げているのが特徴である。
 この1932年(昭和7)9月に雑誌「日本犬」に発表した「狼史雑話」で、国男はニホンオオカミがなぜ絶滅したかという問題を民俗学の視点から考察した。
 オオカミと人との出会いは、近世の記録に数多く残されていた。
 たとえば1788年(天明8)9月、信州南佐久郡の内山村〔現佐久市内〕では、自宅から3町〔約300メートル〕ほど離れた小屋で11歳の少年が鎌でオオカミを切り殺し、父親の危難を救っている。
 1848年(嘉永元)5月、同じく信州上水内(かみみのち)郡日里村〔現中条村〕では、17歳の娘がオオカミに襲われたものの、逆に押さえつけ、たまたま近くを通った女性といっしょにオオカミを退治している。
 不思議に少年や女性によってオオカミが倒されている話が多い。
 近世の特徴は、個々のオオカミの力がさほど強くないことに人が気づいたことと、孤狼が出現したことだ。それまでオオカミは群れをなしていたのに、群れが次第に存立しがたくなったことが、絶滅の大きな要因ではなかったかと国男は推測する。
 オオカミの群れが減った理由としては、鳥獣をとる技術が発達して、野生の食物が減ったことが挙げられる。オオカミはかつて捨てられた牛馬の肉や、野辺で風葬された死人の肉を食っていた(オオカミが「山の神」の使いとされるのは、そのことと関係するのだろうか)。ところが、葬送法の変化によって、それまでの食料が減る。
 オオカミには「群れをなして往来するものと、孤立独行のものと、明らかに二通りあってその生活ぶりも同じでなかった」という指摘は鋭い。

〈信州南部の少年たちは、親や祖父母から聴いて、よくこういう話をする。いわく狼には善い狼と悪い狼とがある。一方は一匹ずつで里に近いところに住み、人に害をせぬのみか時にはまた親切を尽くす。他の一方はすべてこれに反し、かつ群れをなして押しあるくゆえに恐るべきだと言っている〉

 本物の送りオオカミは人を助けてくれるオオカミだと信じられていた(ただし、帰り道で転倒すると襲われる)。
 送りオオカミの世間話にはオオカミを神獣とする「古い信仰」の名残が隠されている、と国男はいう。そのため家まで送られた人は、あずき飯やぼたん餅を外に出して、オオカミに感謝しなければならなかった。
「狼の社会を保護したものは人間の無知であり、これを内部から破壊したものは、食料に比例せぬ口数の増加、もしくは計画のない消費であった」と国男は書き、これは人にも当てはまる教訓だと述べている。
 ニホンオオカミが絶滅したのは、次第に群れが存立しがたくなって、集団が孤立化していったこともさることながら、オオカミに対する人の信仰が薄れていったことも大きな要因だった。

〈こうして何かというと人間の誕生と同じ祝いをしたのは、たぶん山の神の信仰に基づくものであろうが、一つにはまたこの野獣が、特に産育の際になって食物を求めに、里を荒らしにくることを経験していたからでもあろう。しかしその狂暴がようやく募ってきて、祭をしてもなおあばれ、何の罪もない女子供にまで害を加えようとするにいたって妥協は敗れた。そうしてわずかな期間に狼は狩り尽くされ、または繁殖の機会もなしに老いて死に、いまやこの国には種が絶えたという説が、証拠もなしに承認せられるまでになった〉

 哀調を帯びた一文である。
 どこかでまだ生息していてほしい、という思いもこもっている。
 1905年(明治38)に奈良県吉野郡東吉野村で捕獲されたのを最後にニホンオオカミは地上から足跡を絶った。

[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]


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