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女性と民間伝承 [柳田国男の昭和]

《連載14》
 この年(1932年)、国男は朝日新聞の客員もやめて、朝日を完全に退社し、3冊の単行本を出版している。
『日本の伝説』(春陽堂少年文庫)、『秋風帖』(梓書房)、『女性と民間伝承』(岡書院)の3冊である。
 そのうち『日本の伝説』は、3年前にアルスから『日本神話伝説集』というタイトルで「日本児童文庫」の1冊として出したものの焼き直しで、国男は2年前に同じくアルスから出版した『日本昔話集(上)』もいずれ春陽堂少年文庫に加えたいと思っていた(これが『日本の昔話』になる)。
『秋風帖』は1920年(大正9)の旅の記録である。この年8月から9月にかけての東北旅行、12月から翌年2月にかけての九州・沖縄旅行のルポはすでに『雪国の春』、『海南小記』として出版したのに、10月から11月にかけての中部・関西・中国旅行は、東京朝日新聞に紀行を掲載したにもかかわらず、まだ単行本になっていなかった。それを6月の佐渡紀行などとあわせて『秋風帖』としてまとめ、1920年の旅行を記録した3部作を完結させたのである。
 3冊目の『女性と民間伝承』は、1926年(大正15)から翌年にかけ「婦女新聞」に60回以上連載したエッセイをまとめたもので、各地に残る和泉式部の言い伝えを紹介しながら、中世の旅する女性と信仰の問題を論じるユニークな著作となった。
 その序言にはこう記されている。

〈われわれ日本人の多数が、自分たちの昔の生活も少しは知らせてもらいたいと言いだしたのは、つい近いころからのことです。いままではその要求に対して用意がしてありませんでした。文字で書き残された本や日記や証文の中に、この方面の歴史の材料がまるでないとすれば、次にはぜひともいまいる人について調査してみなければなりませぬ。ほかにも何か方法があるかもしれぬが、現在ではほとんとこれが唯一の手段です。そうして人の心をもっとも上手に読むことのできる者は、男より女の中に多くいるのです〉

 女性を主人公とする「伝承」に、文書に記されていない「昔の生活」の痕跡、さらには日本人の「心」が隠されていると考えていたのである。
 この本は和泉式部の事績とその伝説をたどるところから出発している。
 ものの本によると和泉式部は平安時代中期の女性歌人で、「百人一首」にも「あらざらむこの世のほかの思い出に/今ひとたびの逢ふこともがな」という恋歌が収録されている。
 橘道貞と結婚し、娘(小式部内侍[こしきぶのないし])を生むが、冷泉天皇のふたりの皇子と道ならぬ恋に落ち、家出する。その後、藤原彰子([しょうし]一条天皇の中宮)に仕え、道長の家臣、藤原保昌と再婚し、丹後に下ったという。
 恋多き女性として知られている。
 二十代で亡くなる娘の小式部内侍が歌った「大江山いく野の道の遠ければ/まだふみもみず天の橋立」という歌も有名だ。
 京都の誠心院には和泉式部の木像と石塔が残されているが、そもそもこの寺ができたのはずっと後世で、国男はむしろ浄土宗の誓願寺のほうが和泉式部とのゆかりが深いと述べている。おそらく法然が和泉式部の成仏を願い、それによって多くの悩める女性の救済を祈念したのが始まりだろう。
 和泉式部の墓は全国にちらばり、その伝説も各地に残っている。
 たとえば、和泉式部はあるとき姫路の書写山に登り、性空(しょうくう)上人と会おうとしたが、会ってもらえなかった。そこで「くらきよりくらき道にぞ入りぬべき/遙かに照らせ山の端の月」という歌を詠じて、それを御坊の柱に書き付けて去った。この歌を見て感銘を覚えた性空上人は、山を下りた式部のあとを急いで追わせたという。
 そんな話がごまんと伝わっている。伝説では和泉式部は全国を旅し、歌を残していた。ほんものはまずいなかっただろう。
 こうした伝説が多く残ったのは、中世、旅歩きをした女性たち――比丘尼(びくに)やゴゼ、遊行女婦(うかれめ)──が各地に足跡を刻んだからで、誓願寺はとくに比丘尼が暮らし、修業を積む初発の場所だったのではないか、と国男は推測していた。

〈われわれの想像もしなかったくらい大昔の信仰が、たとえ間違いだらけにもせよ、今日まで伝わっていたというには、必ず相応の理由がなければならぬと思いますが、それには物語の女主人公と同一系統の職業婦人が永く地方を旅行していたことを想像すれば、容易に疑問は解けるのであります〉

 遊行する比丘尼は仏の霊験を説き、女身の救済を祈った。
 しかし、その霊験なるものには、すでに仏教以前の信仰が古層のように貼りついていなかったか。
たとえば歌占(うたうら)は旅の比丘尼の得意技で、歌によって吉凶を占った。おみくじの原型である。和泉式部がつくったとされる歌が全国に広がったのは、この歌占と関係が深い。
比丘尼は清き泉のほとりや海辺で、歌を詠み、舞いを舞った。
海辺の松、池のほとりの栗の木には神が降りてきた。
 国男はいう。

〈われわれの見たかぎりにおいては、日本人の持っていた古い信仰は消えて、輸入のものと入れ代わった部分は存外に少なく、たいていは徐々に形を変えつつ、今日を通り越してまだこの先にも続いていこうとしています。文芸技術の民間に伝わっているものはいくらもなく、やはり草木が野山に育つと同じように、元からあったものはとにかく大きくなったのでありました。そうしてそれを養った力は実は主として婦人でしたが、その功績は片端しか記録せられてありません〉

 もののふの世に、国男は女性の信仰の力を対置し、国の将来の危うからぬことを祈ったのである。

[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]


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