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アイヌの歴史 [本]


昔、梅原猛のエッセイか何かで、日本列島にいた縄文人は、弥生人の到来によって、北海道と沖縄に押しやられたという説を読んだ覚えがある。
北の人と南の人は、顔の彫りが深い人が多い。
沖縄人もアイヌも縄文人の末裔だと思っていた。
ところが、日本人という場合に、沖縄人は日本人に含まれるのに、アイヌは日本人に含まれず、たいてい別の民族として扱われている。
ウチナンチュ、ヤマトンチュは、地域の区別であって、民族の区別ではない。
アイヌが日本人と別の民族だというのは、主に文化的な区別にもとづいている。
ほんとうは日本人が単一民族かどうかもあやしいものだ。
東北アジア系、南方系、縄文系、弥生系と並べてみると、日本人は多かれ少なかれそのブレンドであって、その意味では日本人自体が複合民族だと考えてもよいのではないか。
すると、日本人とアイヌが別の民族とされるのは、あくまでも文化のちがいにもとづいており、柳田国男がアイヌを「常民」から排除したのは、民俗学に同一文化の形成史を描くというナショナリスティックな側面が張りついているからではないかと疑ったりもする。
「アイヌの歴史」を知れば、柳田民俗学ばかりか日本の歴史を考え直すきっかけになるはずである。

著者の瀬川拓郎は「アイヌの歴史」を文化の変遷によって大きく4つに分類する。
(1)縄文文化[縄文後期]
(2)続縄文文化[弥生~古墳時代]
(3)擦文(さつもん)文化[7~12世紀]
(4)アイヌ文化[13世紀以降]
この分類はさらに細かく分かれるのだが、それはともかく北の縄文人が日本人(和人)と対抗してアイヌとなるのは13世紀以降だといってよい。
かつて言われたようにアイヌはコーカソイド(白人)ではなく、「基本的には東南アジアや東アジアから日本列島にやってきた後期更新世新世人類の子孫」という立場を著者はとっている。
そして、現在の北海道では、縄文人の子孫が、縄文文化、擦文文化、アイヌ文化を築いていったと考えている。
ただし、そこには縄文人だけではなく、南からの渡来人(弥生人)と北からの渡来人(オホーツク人)が入り組み、また両者が縄文人と混じり合いながら、時代によって複雑な文化を形成していた。
とりわけ注目されるのが、7〜12世紀の擦文文化の時代で、この文化を担った人びとを、著者は擦文人と名づけている。
擦文とは「土器の表面を板でなでつけたときに残る条痕」を指している。
そして擦文文化前期(7~9世紀)、北海道には弥生文化の影響を受けた擦文人、純粋擦文人、サハリンから南下したオホーツク人が道南、道央、道東に住んでいた。
後期の10~12世紀になると、擦文人が中心となり、道東のオホーツク人はサハリンから切り離されて、擦文文化に取り込まれていく。
13世紀になるとアイヌ文化が成立し、擦文人の後裔であるアイヌが北海道だけではなく千島列島全域、サハリン南部にまで勢力を拡大する。
アイヌ文化が成立するのは、アイヌが北海道の資源(サケやクマ、ワシ・タカ羽)確保を積極的におこない、それに成功を収めることによってである。
そして14世紀後半からは和人が北海道(蝦夷地)の渡島半島に進出し、やがてアイヌの交易体制を浸食していくことになる。
〈道南端を占める和人集団の覇権争いに勝ち残った蠣崎(かきざき)氏は、徳川家康から対アイヌ交易の独占を保証され、松前藩が成立した。……[そして1669年の]シャクシャインの戦いに勝利した松前藩は、各地のアイヌから賠償品(宝)を徴収し、藩への忠誠や和人の安全保証などを誓う7カ条の「起請文」を提出させるとともに、徹底的な武器の没収をおこなった。「商場(あきないば)知行制は全島に貫徹し、アイヌは商場に封じこめられていくことになった〉
「商場知行制」とは、家臣にアイヌとの交易場所を知行として与える制度を指す。
のちにこの「商場」は商人にまかせられ、より過酷な「場所請負制」へと移行する。
明治維新は何をもたらしたのだろうか。
〈その後、幕藩体制の崩壊と明治政府の成立のなかで場所請負制が廃止され、アイヌは「解放」された。しかし、実際には交易の場を失い、生活はさらに苦しくなった。また河川でのさけ漁の禁止や狩猟の規制、クマ送りといった伝統的習俗やアイヌ語の禁止など、アイヌの「日本人」化が強力に推し進められていった。和人に土地が払い下げられ、狩猟採集の場も次々失って、アイヌ・モシリ(アイヌの大地)は大きく変容していった〉
アイヌは森の民という印象が強い。
しかし著者はアイヌを「海と宝のノマド」と名づけている。
〈かれらは、ワシ・タカ羽やクロテンの毛皮、さらに中国製品を入手するため、11世紀にはサハリンへ進出を開始した。……また千島列島では、北東端のシュムシュ島までアイヌが居住し、カムチャツカ半島の先住民イテリメンと交易をおこなっていた。……アイヌは宝をもとめて広大な空間を往来する「海のノマド」だったのだ〉
アイヌはなぜ衰退していったのか。
「商品」というウイルスに浸食されたためだ、と著者は断言している。
〈商品として流入してきたモノは、贈与経済の前提であり目的でもある伝統社会の平等原則を、ウイルスのように内側から浸食していった……日本という異文化がもたらす産物もまた、擦文文化の伝統的な贈与経済にとっては「商品」にほかならなかったといえる。そて異文化がもたらす一切の社会性を排除した剥き出しのモノとしての「商品」は……伝統社会を内部から浸食してゆく〉
和人との交易がアイヌ文化をはぐくみ、それがまたアイヌを衰退させていった、と見るのである。


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