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竹取翁と天女 [柳田国男の昭和]

《連載20》
 この年(1933年[昭和8])、柳田国男は大好きな旅行にも目がなく、春めいたころから、講演と郷土研究のネットワークづくりを兼ねて各地を旅した。4月から5月にかけては関西、中国、四国を旅行し、このときはじめて隠岐(おき)にわたっている(伊波普猷と「島」という雑誌を創刊することが決まっていた)。
 7月下旬には富士山に登ったあと信州を旅した。
 富士山に登ったのは、7月24日に富士山頂で開かれた講演会に出席するためである。それをラジオで生放送するというのが、東京放送局(JOAK〔現在のNHK東京放送局〕)の技術陣の願いだった。富士山頂から東京都心まで電波が届くことを確認するだけの馬鹿げた企画だが、以前、飛行機に乗って東北上空を飛んだときのように国男には新しいことに挑戦してみたいという好奇心旺盛な一面もある。
 国男はこのとき「霊山と神話」と題して30分講演し、祖先が信仰とあこがれをいだいた富士の印象を述べながら、かぐや姫の話と天女の羽衣伝説はつながっており、「大昔の世に天津御空(あまつみそら)を愛し慕い、天より降りし神々の御末(おんすえ)を、あきつ神として敬いかしずいた民族は、早くからまたこの御山周囲の地に土着していた」と放送をしめくくった。
 しかし、放送の性格上やむを得なかったにせよ、現人神(あらひとがみ)たる天皇を称揚することが国男の講演の目的ではなかった。その点が気になって仕方なかった国男は、富士山頂からの放送は「時間その他の都合で言い残した点が多く、またあのままでは皆さまの批判も承りにくいので、今とても決して完全ではないが、もう一度考え直してこれを文章に保存することにした」として翌年1月発行の雑誌「国語・国文」に「竹取翁」と題する長大な論文を発表するのである。
 その結論部分で国男はこう書いている。

〈そこであらためて自分の仮定を述べるならば、この竹取物語という文筆の基になった竹取翁説話は、それよりもはるか以前からわが邦(くに)に流布し、しかも地方ごとにかなり著しい話し方の差を生じていたらしい。富士南麓の低地に行われていたものは、特に今日のいわゆる天人女房説話と接近したものであったことは、謡(うたい)の羽衣の下染をなすところの駿河の古伝説、もしくは能因法師の作という歌からも想像し得られ、それがまた竹取物語の利用した素材にも近かったらしい〉

 国男は竹取物語の背後には、その物語よりはるかな卑近で豊富な説話がひそんでいることを示した。それらはさまざまなヴァリエーションを奏で、古人の素朴な信仰、つまり現人神信仰とは必ずしも結びつくわけではない民衆の願いを表している。国男は「絵姿女房」〔女房を奪った殿様をこらしめる話〕や「屁こき爺」などといった庶民の高笑いが聞こえてきそうな民話まで動員しながらそのことを例証していった。そして、竹取物語はほんらい、野山でわびしい生活を送る「一個貧人の致富譚(ちふたん)」だったことを明らかにするのである。

 1933年(昭和8)の国男は漂泊の思いにつかれたように旅をしている。
 病弱といいながら、もともと好奇心が旺盛で活発な人なのである。
 8月初めから9月にかけては、北海道に足を伸ばした。網走、釧路、帯広などを回って旭川まで来たところで病気になり、旭川赤十字病院で1週間ほど入院した。アイヌには、ほとんど関心をいだいた様子がない。いや、かれらと接するすべがなかった。アイヌに関しては、親友、金田一京助の研究に俟(ま)ちたいと思っていたのかもしれない。
 しかし、みずからに課した思考の枠が国男の目をうつろにしたのではないだろうか。雄大な北海道の地に足を踏み入れたにもかかわらず、寂寥(せきりょう)感はつのるばかりだった。
 北見線〔のち天北線となり1989年に廃線〕の声問(こえとい)駅〔現稚内市〕で、雑誌「旅と伝説」の発行人、萩原正徳に次のような葉書を出している。

〈宗谷の岬の灯台の下ではヨードを採るとて道路一ぱいに昆布を焼いている。これぞまことに異様なる雰囲気に候。
 その煙の中に色々の花が咲いている。最もうつくしきは、ハマナスとナデシコ、鳥も多い中にセグロセキレイの挙動がことに内地とかわっておもしろく候〉

 9月29日には『遠野物語』の語り手だった佐々木喜善が49歳の若さで亡くなる。
 国男はのちに「新岩手人の会」の会合で、遠野の昔話を語ってくれた喜善の思い出に触れながら、その生涯を哀惜し、こう述べている。

〈一般に東北の人はそうですが、身体がとても大きく、容貌風采ともに堂々として重々しく、口数も少ないくせに、ひどく感覚だけは近代的で神経の繊細な生活力の希薄な人と、みかけは弱そうでいて恐ろしく生活力の強烈な人とがありますが、佐々木君は実に前者の性格の典型的な人でした。
 人の笑って顧みない昔話の蒐集(しゅうしゅう)をやりながら、エスペラントの研究をやった佐々木君の一見矛盾に見える意図なり仕事なりは、よくその性格を表しているものでしょう。おそらく佐々木君は、この矛盾で一生苦しんだのではあるまいかと思います。
 ほとばしり出、叫びだしそうな才能を殺し抑えながら、地味な、できるだけありのままを伝えなければならない民間伝承の仕事をやるということは佐々木君としてはずいぶん苦しかっただろうと察しています〉

 むりやり遠野の土淵村村長に祭り上げられ、多額の借金を負うことになって、先祖伝来の土地を処分し、仙台で暮らしていた喜善は、プライドが高いわりに人がよく、繊細で不器用な人物だったにちがいない。
 日本の民俗学を切り開くきっかけを与えてくれた、かつての盟友の死を悼みながら、国男はまだ緒についたばかりの民俗学のゆくえに思いを馳せていた。

[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]


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