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御霊信仰 [柳田国男の昭和]

img167.jpg《連載27》
 次の「目一つ五郎考」(1927年、雑誌「民族」に発表)でも、柳田国男は山に住む神の目が一つであることを指摘している。山童(やまわらわ)の目も河童とちがって一つであり、それは「目一つ坊」でも「目一つ五郎」でも変わらず、東日本では片目の木像が多く残されているという。
 この木像は景政伝説と関係していることが多く、眼病平癒を祈願する御霊信仰と結びついていただけではない。景政の主人が源義家(八幡太郎)だったために、さらには八幡信仰へとつながり、のちに上杉謙信までが景政の後裔と名乗ることになる。片目であることが神寵と結びつく隠れた理由があったのではないかと国男は考えていた。
 ここで「めっかち」という差別語を導入するが、悪気はないので許してもらいたい。「めっかち」とは片目を意味するが、「かち」とは何をさしているのだろう。それはほかならぬ「鍛冶」のことだ。鍛冶は火と水の工芸で、かつては目を痛める職業でもあった。日本全国に鎌倉景政や、雷(いかずち)、さらには天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祭る神社が広がっているのは、おそらく鍛冶職人(たたら集団)の分布と関係していると国男は見ていた。一目小僧や目一つ五郎は、そうした神の零落した姿である。


 国男の思考はアナロジーを通じて重層的に広がり、また元の出発点に戻って円環を閉じるように形成されるが、それで最終結論が出されたわけではない。円環はとりあえず仮説を示して閉じられただけで、それは常に広がり、組み直される可能性をもっている。アナロジーには常に飛躍が含まれるので、国男の文体を追っていくのはなかなか骨が折れる。
 一つ目神の追求から、国男は次に別系統の神社への連想を紡ぎだしている。野州(下野と上野〔現在の栃木・群馬〕)には一目を損じた垂仁天皇の皇子、池速別命(いこはやわけのみこと)を祭った神社が多い。ほかに柿本人麿を祭る「人丸神社(大明神)」も多く、人麿がこの地で手負いとなって逃げるときにキビ畑で目を傷つけたという言い伝えが残っている。だが、野州の「人丸神社」はそもそも柿本人麿を祭った社ではなく、「一目(ひとめ)神社」の転訛(てんか)ではないかと国男は疑っている。
 さらに九州には日向(ひゅうが〔現宮崎県〕)などに多くの「生目(いきめ)神社」が残っており、ここでは日向景清(かげきよ〔すなわち平景清、別名、悪七兵衛景清〕が祭られている。盲目となったと伝えられる平家の猛将、景清を祭る神社も、眼病の平癒祈願と関係している。
 国男によれば、このような神社はすべて一つ目神信仰がのちの御霊信仰と結びついて発達を遂げたものだ。ここには神主を神へのいけにえとしてささげた古代の儀式が、一つ目神自体を祭る信仰へと変わり、さらにはそれが一つ目の御霊を祭る信仰へと推移した経過がたどられている。

[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]
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