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漂泊の民、木地師と [柳田国男の昭和]

《連載31》
 木地屋、あるいは木地師といっても、いまではそれがいったいどういう集団なのか見当もつかない人が多いだろう。そこで1932(昭和7)に平凡社の『大百科事典』に柳田国男が書いた解説を一部引用しておくことにする。

〈キジヤ(木地屋) 山中の樹(き)を刈って、轆轤(ろくろ)を用い盆椀などの素地から杓子の類までを製作する工人。木地挽(ひき)、御器(ごき)挽、木地職、木地師、轆轤師などとも呼ばれる。その郷里は近江愛知郡東小椋(おぐら)村で、小椋、小倉、大倉、大蔵などの姓を名乗る者が多い。職業の関係から数百年来、郷里を離れて原料の豊富な諸国の山々を移動しているが、本州を縦断する中央山脈と四国の山岳地帯に殊に足跡が多い。各地に移住したものの中には、すでに数百年の昔に郷里と交渉を断った者があり、隠れ里の伝説をはじめ、平家残党の土着と称するいわゆる平家谷の譚(たん)、あるいは貴人流寓の口碑なども、彼らの移住史と密接な関係がある〉

 木地屋は流浪の技術者集団で、9世紀半ばに在位した文徳(もんとく)天皇の第1皇子、惟喬(これたか)親王を祖神とし、森林伐採の特権を有すると称する。少なくとも江戸時代の終わりごろまで、その存在は知られていた。
 椀や膳、杓子はかつて平地の農民にとっては貴重な品物で、木地師に頼みこんで、それらを手に入れていた時代があったにちがいない。米などと木製品の交換は無言でおこなわれたとも信じがたいが、椀貸伝説が木地屋と平地農民との交流を示す痕跡だったことはまちがいない。
 木地屋が岩室や洞窟の奥から椀などをうやうやしく取り出したかどうかは想像にまかせるしかないが、場合によっては急な宴会があって椀貸を木地屋に依頼するようなことも端緒の出会いとしてあったのだろうか。
 しかし、ことはもっと神話の領域に属しているようにみえる。
 椀貸は神から人への貸与としておこなわれた。これは隠れ里からの贈り物である。ところがある時点で、人が神への返却をおこたるような事態が生じ、それによって人と神との幸福な関係はとだえてしまう。
 人はもはや人との関係のなかでしか、欲するものを獲得することができなくなった。
 ここで重要なのは、椀貸がすでに伝説になったこと、言い換えれば伝説が隠れ里の時代が終わったことを告げていることだと思われる。伝説が昔の言い伝えとして認識されるなかで、里人の前に立ち上がってきたのは、隠れ里ではなく、現実の木地師であり、蹈鞴(たたら)師であり、毛坊主・遊行女婦だった。

 国男は漂泊する彼らの姿を里人の視点で記録する。そこでは椀貸伝説は神話ではなく、すでに木地師と里人との交流譚へと変じている。
 歴史家の網野善彦は、中世に焦点を合わせ、むしろ漂泊民の視点から里人たちの実態をとらえようとした。だがこれはまた別の物語とするしかない。
 ここでは神話の終わりと伝説の始まりに焦点を当てるべきだろう。隠れ里からもたらされた山の幸、海の幸と里の恵みとの神話的循環はすでに断ち切られて久しい。いま幸をつくるのは人の側で、より豊かな幸を際限なく(悪無限的に)生みだそうとすればするほど、人はより多くの労苦に耐えなければならない。その幸は限られており、それを得るには熾烈(しれつ)な競争が待っている──そういう時代が始まっていたのである。

 満州事変が快哉を呼び起こしたのはつかの間で、時代は次第に苛烈さを加えていた。
 国男が『一目小僧その他』を出版した直後の1934年(昭和9)7月、斎藤実内閣が「帝人事件」によって総辞職し、岡田啓介内閣が成立する。斎藤内閣が思いがけぬ長期政権となったのは、高橋是清を蔵相に送り込んだ議会最大党派の政友会(総裁は鈴木喜三郎)が、棚ぼた式の次期をねらって、5・15事件後の緊急避難政権を支えたからである。いっぽう陸相の荒木貞夫を次期首相に擁立しようとする陸軍の動きは完全に封じ込まれていた。そのため「帝人事件」と呼ばれる(現在のリクルート事件に似た)疑獄事件が表面化するまで、斎藤内閣は奇妙な安定を保っていた。
 海相の岡田啓介はいわゆる「重臣会議」によって次期首相に選出された。いまやたった一人の最後の元老となった西園寺公望は、首相経験者と枢密院議長、内大臣などからなる重臣会議を首相選定の新たな機関と定めた。岡田の首相就任は2度つづけての海軍政権を発足させることになるが、収まらないのは政友会と陸軍だった。とくに陸軍では政府支持の「統制派」と政府打倒の「皇道派」との対立が激化し、これが永田鉄山(陸軍省軍務局長)暗殺事件や2・26事件へとつながっていくのである。
 その秋、国男は信州の八ヶ岳山麓を旅し、その思い出にふけりながら、「秋風の吹く頃に」というエッセイを書いた。高原を思い浮かべるうちに、なぜかかつて歩いた岩手の下閉伊(しもへい)郡の光景が頭にこびりついて離れなくなった。

〈わずかばかり海を離れてまだ磯の音が聞こえ、岡の頭の雲なども、まだ海上から生まれたままの形を持ったままでいるのに、下閉伊郡北部などはすでに十分に高原の感じを与える。私はやはり秋のかかりに、その地方を3日ほど跋渉(ばっしょう〔遍歴〕)してみたことがある。ある日は小雨が降り次の日は霧で、どこまで行っても萩のまじった芒原(すすきはら)であった。山と山との間にも稀にこういう静かな原があるかもしれない。初夏の小鳥の声の多いころも面白いが、私は秋の風に吹かれて、もう一度少しも急がずに、そういう野の中をあるいてみたい〉

 しかし、時代はこうした旅人のはるかな思いを踏みつぶす方向に進んでいた。

[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]
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