隠れ里 [柳田国男の昭和]
《連載30》
柳田国男も早くからグリアソンの本を読んでいて、「無言貿易」を「山野曠原(こうげん)を隔てて隣り住む二種の民族が、互いに相手と接触することを好まず、交易に供したいと思う品物のみを一定の地にとどめておいて、かわるがわる出てきては望みの交換品を持ち帰る風習をいう」と理解していた。
椀貸伝説を「無言貿易」の一種とみる鳥居龍蔵に国男が反発したのは、かれが無言貿易を「二種の民族」間の交易風習ととらえていたからである。椀貸の伝説は、とても二種の民族間で生じたできごとの痕跡とは思えないというのが国男の直感だった。
無言での商売というなら、ほかにもこんな習慣があった。
〈土佐で自分らの目撃したのは路傍に草鞋(わらじ)とか餅、果物のたぐいを台の上に並べ、脇に棒を立てて銭筒をつるし、その下には3文または5文の銭の絵が描いてあった。わずかの小売りのために人の手をかけてはおられず、幸い相手が貧人ながら信心のための旅行者であれば、その正直を頼りに右のごとき人なし商いをしたまでで、本式の無言貿易とは根本の動機がちがう〉
土佐の田舎でみたのも、形態はたしかに無言の交易である。現代でいえば、さしずめ自動販売機だろう(物言う販売機もあるが)。これをみても、国男が「無言貿易」という規定が、そもそも誤解を招きやすいと感じていたことがわかる。
南方熊楠のように、異民族間、あるいは異部族間の交易は、グリアソンのように「無言貿易」ととらえるのではなく「鬼市」と規定するほうがまだ厳密だった。しかし、すでに絶交状態にあった熊楠のとらえ方に国男はすりよろうとはしない。
むしろ昔の人は、椀貸淵や椀貸穴は「竜宮」あるいは「隠れ里」につながっていると信じていたというロマンチックな空想に身をゆだねるのである。
その結論を導き出す前に、国男は椀貸伝説が、平地人と異民族とみたアイヌとのあいだに生じた物語ではありえないことを強調している。
洞窟や水底から出現する霊物、あるいは竜宮や隠れ里を訪れたという人の体験談を延々と書き連ねたあと、国男はこう述べている。
〈椀貸の穴が水に接すれば竜宮といい乙姫といい、野中山陰にあるときは隠れ里といい隠れ座頭といったのは、自分には格別の不一致とも思われぬ。竜宮も隠れ里もともに富貴自在の安楽国であって、たやすく人間の至り得ぬ境であった。浮世の貧苦に悩む者の夢に見、うつつに憧れたのは、できることなら立ち帰りにでもちょっと訪問し、何かもらって帰って楽しみたいというにあったこと、両者とも同様である。否、むしろ竜宮は水中にある一種の隠れ里にほかならぬ〉
地の底には隠れ里、水の中には竜宮があって、それは「富貴自在の安楽国」であって、どちらも「隠れ里」と呼んでさしつかえない、というのである。人助けの椀はそこからやってくる。
国男はこうした隠れ里を訪れたとする人の体験談を次々と紹介している。平家の落人伝説とからめて語られることも多かった。
そのうえで、国男は椀貸伝説を異民族間の「無言貿易」の一種と理解する鳥居龍蔵の見方を批判して、次のように述べる。
〈自分が主として証明せんとしたのは、単に膳椀の持ち主または貸借の相手が、アイヌのその他の異民族であったらしい痕跡がまだ一つもないという点であった。これ以外において何か手がかりとなるべき特徴ではないかと思うのは、話の十中の九まで前日に頼んでおいて翌朝出してあったということ、すなわち先方が多くは夜中に行動したという点である。それよりもなお一段と肝要なのは、わずかな例外をもって貸した品が、常に膳椀その他の木製品であったことである〉
読者は次第に推理の枠がしぼられてきたと感じるだろう。
隠れ里からもたらされるものが、なぜ膳椀などの木製品なのだろうか。
そこから国男は近江の小椋(おぐら)の里を出自とする木地師集団(木地屋)の存在を明らかにし、まっしぐらに結論へと向かう。
〈木地屋の作りだした杓子(しゃくし〔しゃもじのこと〕)のごときは山で山の神、里でオシラ神などの信仰と離るべからざるものであった。新たに村の山奥に入り来り、しかも里の人と日用品の交易をする目的のあった彼らは、相当の尊敬と親密とを求めるために、多少の知恵を費やすべき必要があった。必ずしも無人貿易をせねばならぬほどに相忌んでいなかった彼らも、少しも技巧を用いずには侵入しえなかったのは疑いがない。そこでさらに想像をたくましくすると、彼らには往々岩穴や土室の奥から、鮮やかな色をした椀などを取り出して愚民に示し、これを持っていれば福徳自在などと講釈して彼らに贈り、恩を施したことがないとはいわれぬ〉
いささか強引な推理であることはいなめない。しかし、国男が言いたかったのは、各地に残る椀貸伝説がアイヌ(もしくは山地人)と平地人の交流を示す痕跡ではなく、木地師集団という高度な技術をもつ漂流民の存在を浮かび上がらせるということなのである。
[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]
柳田国男も早くからグリアソンの本を読んでいて、「無言貿易」を「山野曠原(こうげん)を隔てて隣り住む二種の民族が、互いに相手と接触することを好まず、交易に供したいと思う品物のみを一定の地にとどめておいて、かわるがわる出てきては望みの交換品を持ち帰る風習をいう」と理解していた。
椀貸伝説を「無言貿易」の一種とみる鳥居龍蔵に国男が反発したのは、かれが無言貿易を「二種の民族」間の交易風習ととらえていたからである。椀貸の伝説は、とても二種の民族間で生じたできごとの痕跡とは思えないというのが国男の直感だった。
無言での商売というなら、ほかにもこんな習慣があった。
〈土佐で自分らの目撃したのは路傍に草鞋(わらじ)とか餅、果物のたぐいを台の上に並べ、脇に棒を立てて銭筒をつるし、その下には3文または5文の銭の絵が描いてあった。わずかの小売りのために人の手をかけてはおられず、幸い相手が貧人ながら信心のための旅行者であれば、その正直を頼りに右のごとき人なし商いをしたまでで、本式の無言貿易とは根本の動機がちがう〉
土佐の田舎でみたのも、形態はたしかに無言の交易である。現代でいえば、さしずめ自動販売機だろう(物言う販売機もあるが)。これをみても、国男が「無言貿易」という規定が、そもそも誤解を招きやすいと感じていたことがわかる。
南方熊楠のように、異民族間、あるいは異部族間の交易は、グリアソンのように「無言貿易」ととらえるのではなく「鬼市」と規定するほうがまだ厳密だった。しかし、すでに絶交状態にあった熊楠のとらえ方に国男はすりよろうとはしない。
むしろ昔の人は、椀貸淵や椀貸穴は「竜宮」あるいは「隠れ里」につながっていると信じていたというロマンチックな空想に身をゆだねるのである。
その結論を導き出す前に、国男は椀貸伝説が、平地人と異民族とみたアイヌとのあいだに生じた物語ではありえないことを強調している。
洞窟や水底から出現する霊物、あるいは竜宮や隠れ里を訪れたという人の体験談を延々と書き連ねたあと、国男はこう述べている。
〈椀貸の穴が水に接すれば竜宮といい乙姫といい、野中山陰にあるときは隠れ里といい隠れ座頭といったのは、自分には格別の不一致とも思われぬ。竜宮も隠れ里もともに富貴自在の安楽国であって、たやすく人間の至り得ぬ境であった。浮世の貧苦に悩む者の夢に見、うつつに憧れたのは、できることなら立ち帰りにでもちょっと訪問し、何かもらって帰って楽しみたいというにあったこと、両者とも同様である。否、むしろ竜宮は水中にある一種の隠れ里にほかならぬ〉
地の底には隠れ里、水の中には竜宮があって、それは「富貴自在の安楽国」であって、どちらも「隠れ里」と呼んでさしつかえない、というのである。人助けの椀はそこからやってくる。
国男はこうした隠れ里を訪れたとする人の体験談を次々と紹介している。平家の落人伝説とからめて語られることも多かった。
そのうえで、国男は椀貸伝説を異民族間の「無言貿易」の一種と理解する鳥居龍蔵の見方を批判して、次のように述べる。
〈自分が主として証明せんとしたのは、単に膳椀の持ち主または貸借の相手が、アイヌのその他の異民族であったらしい痕跡がまだ一つもないという点であった。これ以外において何か手がかりとなるべき特徴ではないかと思うのは、話の十中の九まで前日に頼んでおいて翌朝出してあったということ、すなわち先方が多くは夜中に行動したという点である。それよりもなお一段と肝要なのは、わずかな例外をもって貸した品が、常に膳椀その他の木製品であったことである〉
読者は次第に推理の枠がしぼられてきたと感じるだろう。
隠れ里からもたらされるものが、なぜ膳椀などの木製品なのだろうか。
そこから国男は近江の小椋(おぐら)の里を出自とする木地師集団(木地屋)の存在を明らかにし、まっしぐらに結論へと向かう。
〈木地屋の作りだした杓子(しゃくし〔しゃもじのこと〕)のごときは山で山の神、里でオシラ神などの信仰と離るべからざるものであった。新たに村の山奥に入り来り、しかも里の人と日用品の交易をする目的のあった彼らは、相当の尊敬と親密とを求めるために、多少の知恵を費やすべき必要があった。必ずしも無人貿易をせねばならぬほどに相忌んでいなかった彼らも、少しも技巧を用いずには侵入しえなかったのは疑いがない。そこでさらに想像をたくましくすると、彼らには往々岩穴や土室の奥から、鮮やかな色をした椀などを取り出して愚民に示し、これを持っていれば福徳自在などと講釈して彼らに贈り、恩を施したことがないとはいわれぬ〉
いささか強引な推理であることはいなめない。しかし、国男が言いたかったのは、各地に残る椀貸伝説がアイヌ(もしくは山地人)と平地人の交流を示す痕跡ではなく、木地師集団という高度な技術をもつ漂流民の存在を浮かび上がらせるということなのである。
[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]
2008-03-27 05:59
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