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魔の退屈 [本]

『坂口安吾と太平洋戦争』(半藤一利)を読む(4)

1943年(昭和18)にはいっても安吾の仕事量は少ない。主に「現代文学」に短いエッセイや自伝風の小説を書くだけ。大井広介邸に居座って、ひたすら栄養を補給していた。
しかし、安吾の論説は例によってお上など恐れてはいない。「僕は断言するが、日本精神とは何ぞや、などと論じるテアイは日本を知らない連中だ」などと意気盛んである。
このころ山本五十六の戦死、アッツ島守備部隊の玉砕など、日本軍の当初の勢いがあやしくなったことを示す報道が流れるようになった。
「飛行機が足りなければ、どんな犠牲を忍んでも飛行機をつくらねばならぬ。船が足りなければ船を、戦車が足りなければ戦車を、文句は抜きだ。国亡びれば我ら又亡びる時、すべてを戦いにささげつくすがよい」
安吾はきっぱりしている。これを軍国主義というなかれ。日本は負けると思っていた。半藤はここに〈日本というこの可哀そうな国や同胞を裏切らない、というきわめて倫理的な決断〉を見ている。
米軍の攻勢がはじまるなか、日本国内では戦時下の総動員態勢が強まり、10月には東京の神宮外苑競技場で出陣学徒壮行大会が催された。
そのころ安吾は夏の4カ月を故郷の新潟で過ごしていた。ここで何をしていたかというと、驚くなかれ、朝、昼、夕と海で泳いでいたのである。半藤によると、その理由がふるっている。〈荒れる日本海で、輸送船沈没のさいの助かるための自主的猛訓練をしていた〉というのだから、大笑いするしかない。
それでも歴史、とりわけ戦国時代の勉強だけはしっかり続けていたというのだから、やはりたいしたものだ。〈戦時下というのは師匠[安吾]にとって暇で暇でしようがなかったとき、それこそもっぱらタンテイ眼[推理力]を磨くに最適のときであった、ということになるのであろう〉
1944年(昭和19)にはいると言論統制がますます強まり、「現代文学」も廃刊に追い込まれる。安吾は原稿用紙も手に入れられなくなった。それでも「現代文学」の最終号に小説「黒田如水」を書き、「文芸」に「鉄砲」を発表する。いずれも歴史小説の傑作。
そして作品発表の場がなくなった安吾は、徴用逃れの意味もあって日本映画社の嘱託におさまるが、行っても行かなくてもよいという勤務で、〈気の狂うくらい毎日が退屈〉なのだった。戦後に書かれた名エッセイ「魔の退屈」はこの経験から生まれる。
この年の戦況を半藤はこう記している。
〈質量ともに爆発的な飛躍をみせるアメリカの大機動部隊の猛威のまえに、戦略が根本的に破綻した日本軍は、後手後手となる防御いっぽうの戦いで、十九年の戦いはただ鉄と火の大暴風に追いまくられるばかり。太平洋の各所で鉄と火に肉体をぶつける玉砕がつづいた〉
夏には米軍がサイパンとグアムを押さえ、これで日本本土空襲が確実になった。


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