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死ぬまで青春 [本]

『坂口安吾と太平洋戦争』(半藤一利)を読む(3)

ハワイ真珠湾の奇襲ではじまった太平洋戦争は、当初、日本軍の連戦連勝がつづいた。1942年(昭和17)1月にはマニラ占領、2月にはシンガポール陥落、3月にはラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)、バンドン(現インドネシア)進駐といった具合。
それでも国内はすでに物資不足に悩んでいた。衣料の購入は制限されていたし、煙草も思うように買えなくなった。煙草好きの安吾にはそれが痛い。
日本全国が浮かれ調子になっているとき、安吾は「現代文学」に「日本文化私観」を発表する。
「伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは『生活の必要』だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである」
言いも言ったりという気がする。京都より浅草が好きな安吾ならではの一節。
しかし、この言葉を半藤は次のように深読みする。
〈この不敵な言葉の底の底には、そのようなこと[京都の寺や仏像の全滅]の起こる予感と覚悟がある。この戦争に勝利はないであろうと。理性的に推理していけばそうなる必然性があるとの、ゆるがぬ思想があったのである〉
日本軍が連戦連勝を重ねているときに、はたして安吾が戦争の行方を見通していたかどうかはわからない。ただ、日本の美や天皇に殉ずることをよしとしていなかったことはたしかである。だいじなのは人それぞれの生活だという、あたりまえのことを戦争中きちんと言ってのけるところに安吾の度胸のよさがあった。
安吾は桂離宮の書院や龍安寺の石庭より、旅に出て、大自然のなかに庭を見つけた芭蕉のほうを愛した。貴族趣味、教養や教義の押しつけは大嫌いで、あっけらかんとしておおらかなものが好きなのである。
まもなく「日本文学報国会」が誕生しようという時期に、安吾は「[特派員などの書く]感傷過多の報道は、その貧しさにおいて傷(いた)ましすぎるものがある」と言ってのけ、「戦争の心臓部ともいうべきものを託されていない文学者が、歴史の非情に身を置いて雄大な戦記を構想することが出来ないのは当然だと言わねばならぬ」と断言する。これもまた痛快きわまる一文だ。
しかし、その安吾でさえ、真珠湾攻撃に加わった潜航艇乗組員をたたえた「真珠」という小説を書いていた。半藤によれば〈この戦争でおのれも死ぬことになると覚悟をきめた安吾さんは、9人の若者のすすんで自分で選びとった死にグサッと胸を刺され〉て、この小説を書いたのだが、実はその元となった苛烈な美談そのものが、海軍報道部のでっちあげだった。
〈わが師匠が軍事的な諸事実からはるか遠くにいた存在で、何もご存じなかったのは仕方がない。責めるつもりなんか微塵もないが、「真珠」が12月8日を書いた唯一といってもいい名作、とのこれまでのわが太鼓判は、真実に近づけば近づくほど、残念ながら捺したくなくなってくる〉
このあたり、半藤はちょっと悔しそうである。
日本軍の連戦連勝は、わずか半年あまりでストップする。6月のミッドウェイ海戦は日本海軍の完敗、8月には米軍がガダルカナル島に上陸、日本軍は大きな損害を出して、暮れにガ島撤退を決定した。
安吾はそのころ小説「島原の乱」と「宮本武蔵」を構想するものの、途中で投げだし、「文学界」にエッセイ「青春論」を発表しただけで、〈相変わらずの半ばグウタラで、半ば熱心な作家的生活〉を送っていた。
「不良少年、不良青年、不良老年」になって、死ぬまで青春というのが安吾の理想だった、と半藤は述べている。


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