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「暗黒日記」から [柳田国男の昭和]

《連載103》
 1943年(昭和18)前後から、外交評論家の清沢洌(きよさわ・れつ[きよし])は、戦時の記録を日記に残しはじめていた。ガダルカナルやニューギニアでの苦戦が伝えられていた。2月4日の日記には、スターリングラードのドイツ軍が全滅したこと、東条首相は「戦争には必ず勝つ」というが、「巷間、不安の気がただようのが事実のようだ」と書きとめている。
 清沢の愛国者ぶりは2月11日にこう書いたことからも歴然としている。

〈紀元節だ。朝日さやけし。ああ、天よ、日本に幸いせよ。日本を偉大ならしめよ。皇室を無窮ならしめよ。余は祖国を愛す。この国にのみ生れて、育ちて、死ぬ運命に結ばる[る]のだ〉

 連合艦隊司令長官山本五十六の戦死〔4月18日〕がラジオで伝えられたのは5月20日、アッツ島〔アリューシャン列島の島〕の「玉砕」が伝えられたのは5月30日のことである。
 清沢は戦死した山本五十六について、こう書いている(5月22日)。

〈山本は日米戦争に反対だった。海軍次官のかれは、はやる陸軍の対米戦争指導を食い止め、一時は非国民とさえもいわれたものだ。かれは公然陸軍に抗した。しかし一度国策決まれば黙して戦うといって、火ぶたを切った。すなわちこの戦争はかれの好まない戦いであった〉

 山本の信条は、清沢の思いと合致していた。アッツ島の日本軍守備隊が玉砕したとき、「それが国家のためにいいのであろうか」と、清沢は疑念を呈している。
 おそれているのは「赤化的流れ」、すなわち社会主義革命だった。
 6月18日の日記にはこうある。

〈戦争の深化──食料難──騒動──内閣更迭──動揺の継続──和平論の台頭──革命的変化──そのような順序をとるのではあるまいか〉

 すでに敗戦の見通しをつけていたことがわかる。問題は内戦や革命を引き起こさないようにすることだ。これはのちの「敗戦は遺憾ながらもはや必至」とする近衛上奏文の問題意識を先取りしたものといえるかもしれない。
 6月末にはイタリアの情勢が危うくなり、ドイツ軍がアルプスのブレンナー峠を固めた。そして7月10日には連合国軍がシチリア島に上陸、25日にはムッソリーニが罷免、逮捕され、イタリアは実質上、戦線を離脱した。
 清沢は日記に気になった新聞の記事を貼りつける習慣があった。7月15日の毎日新聞夕刊には、東条首相が国会で食料や衣服の問題について次のように答弁していたことが報じられていた。

〈私が最近郊外で見たことであるが、道端に腐ったキャベツの山が捨てられてある。農夫は市場に持っていけないから捨てたという。よく見るとその中にリヤカーに1台か2台程度食べられるものがあるので、近くの工場主を呼んで今晩これを食べたらどうか、いってきたが、今日においては一片の野菜といえでも腐らしてはならないと思う。このように腐らすことは政府の責任もあるが、国民の責任でもある。お互いに腐らせぬよう、食糧が不足しているとよくいうが、日本で食糧が不足しているということはおかしいことと思う。人間の知恵が足りないのだと思う〉

 毎日新聞はおそらく、これを世情にも細かい関心を寄せる東条首相の美質としてとらえている。だが、見る人が見れば、これは大局よりも小事にこだわる、いかにも官僚的な重箱の隅をつつくような答弁で、実に噴飯ものだったのではないだろうか。
 戦意を昂揚するにはまずかたちからといわんばかりに、男子は巻脚絆、女子はもんぺが奨励され、まもなくそれが義務となろうとしていた。
 清沢洌は1890年(明治23)に長野県北穂高村に生まれ、研成義塾で学んだあと、アメリカに渡り、そこで邦字紙の記者になった。帰国してからは中外商業新報(日本経済新聞の前身)を経て、1927年(昭和2)に朝日新聞に移籍したが、そのリベラルな主張から右翼につけねらわれ、2年後に朝日を退社、以後、フリーの外交評論家として活躍した。中央公論社の嶋中雄作や東洋経済新報社の石橋湛山とは親密な関係を保っていた。
 柳田国男とは朝日新聞時代から面識があり、中央公論社が支援する「民間アカデミー」国民学術協会でもつきあいがあったと思われる。


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