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戦時の座談会 [柳田国男の昭和]

《連載104》
「中央公論」に連載されていた谷崎潤一郎の小説「細雪」は、「決戦段階」において「好ましからざる影響」があると軍部から横やりがはいって、6月号から掲載中止となった。さらに次号の目次を見た陸軍報道部が、執筆者の顔ぶれが悪く、自粛が足りないと指摘したため、7月号は休刊を余儀なくされていた。
 露骨な出版統制が強まるなか、雑誌「文藝春秋」のために、柳田国男が民俗学について、ざっくばらんな話をしたのは、1943年(昭和18)8月のことである。軍部に協力的な菊池寛の雑誌には、ある程度のお目こぼしがあったにちがいない。
 このとき国男の座談の相手を務めたのは、橋浦泰雄と浅野晃(あきら)だった。ふたりともマルクス主義者として活動した経歴があるところがおもしろい。
 昭和のはじめプロレタリア文化運動にかかわった橋浦は、発足当初から木曜会の常連で、守随一(しゅずい・はじめ)や大間知篤三(おおまち・とくぞう)が満州に生活拠点を移したあと、雑誌「民間伝承」の編集長を引き受けていた。
 そのころ渋沢敬三の日本常民文化研究所(アチック・ミューゼアム)でこころみられていた、字引ならぬ「絵引」でも、橋浦は画家としての才能を発揮して、「信貴山縁起絵巻」や「餓鬼草紙」から民俗資料となる絵を抜き書きして模写する作業をおこなっている。渋沢からすれば、橋口の生活を助ける意味合いもあったかもしれない。
 いっぽうの浅野晃は、かつての東大新人会の仲間、大間知篤三の紹介で、7年ほど前に柳田と知り合った。獄中で転向した水野成夫(みずの・しげお)とともに、1930年(昭和5)、コミンテルンの「君主制廃止」綱領を放棄した日本共産党労働者派(解党派)を結成したことで知られる。解党派自体は3年後に消滅するが、浅野自身は民族の自覚と日本精神を説くようになっていた。
 1938年から40年にかけては創元社の『アジア問題講座』の企画にかかわり、国男がこのシリーズに推薦文として「アジアに寄する言葉」を書いたことは前に記した(http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni25.html を参照)。
 1942年(昭和17)1月、浅野は陸軍宣伝班の一員としてジャワ島に向かい、その途中、乗っていた船が敵の魚雷で沈没し、大宅壮一らとともにスンダ海峡を1時間漂流するという経験を味わった。シンガポールでマレー宣伝班の井伏鱒二や海音寺潮五郎、吉川英治らと会い、サイゴン、台北をへて11月、東京に戻ってきた。
「民間伝承について」という何ともそっけない見出しで、「文藝春秋」9月号に掲載された座談会で、浅野は南方でのみずからの経験をまじえながら、なるべく時局にからめて国男の話を引き出そうとしている。
 国男はこんなふうに話しはじめている。

〈民間伝承の学問の始まった時分は、世の中が平和だった。だから、私は最初から役にたたないことをやろうという考えはなかったけれども、ずっと収穫期があとにきてもかまわないように栽培しておった。……ところが、だんだんこういう時世になって自分の仕事をつづけておって、はたして気楽な仕事だとか閑人の事業とかいわれるようなものがないかと何べんも考えてみた〉

「私は実際家だから、役にたたない学問はやらんほうがいいという気持ちすらもっている」とまでいう国男は、戦時における民俗学の役割について、ほかの人の意見を聞いておきたかったようにみえる。
 これに対し南方から戻ってきたばかりの浅野は、全部がイスラム教徒となっているジャワ島でも、その底にはインド系統のヒンズー教があり、さらにその下には、もっと古い信仰があると話した。そして、いまジャワを占領する日本当局は、現地の有力者を集めて、古い習慣をしらべる「調査委員会」のようなものをつくろうとしている、と付け加えた。
 民俗学の採集技術を利用して、「民衆の機微」をつかみ、「在来の英米流の植民政策とまったくちがった行き方」で、現地の実態を理解できるのではないかというのである。
 ところが、国男はあくまでも慎重な姿勢を崩さなかった。
「大東亜圏内の文化の共通点」を見つけるための比較民俗学は必要だと思うけれども、ことばというのが大きな壁で、通訳を介しての作業では表面のことしかわからないと指摘し、さらにこう話している。

〈私らの同胞にたいして抱いている熱意というものを、すぐ転用してちがった人種に持っていくということは困難なんです。われわれはまだ彼らの霊魂には触れていないからね。もっともそれでは日本人には触れているかというと、霊魂とまで言えなくとも、いちばん心の奥にあるものまで機会あるごとに触れあっている。だから国内の問題に戻ってきて、国内で何がいちばん民俗学を要求しているかということを考えて、第一の点でご奉公できなければ、第二、第三の点でご奉公するということにならんじゃないか〉

 在来の「英米流」とはちがうにせよ、植民地政策に民俗学の方法を用いることに国男は反対だったし、そもそも現地の人びとの「霊魂」に触れていない日本人に、そんなことが可能だとも思っていなかったのである。


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