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中島敦と朝鮮の虎 [本]

『狼疾正伝』を読む(2)

 中学の漢文教師をしていた父がしばしば転勤したため、小学生の中島敦も郡山(奈良県)、浜松、そして、ソウルの小学校に転校します。中学は京城中学です。そこから第一高等学校、東京帝国大学文学部国文科に進んだのですから、成績は抜群だったわけです。
 前回、狼疾を「崩壊感覚の中の自我」と名づけましたが、これは根無し草とよく似ています。ただし、考える根無し草というところが変わっています。中島敦は小学校の先生から、地球の滅亡、宇宙の絶滅の話を聞いて、子ども心にものすごい恐怖感を覚えたことがあるといいます。自分の属している世界はもともとどこか壊れていて、それはひたすら滅亡への道を歩んでいる。そんな世界にふわふわとただよっている自分はいったいどうなってしまうのか。少年時代、そんな不安にいつもさいなまれていたようです。
 中島敦にとって、植民地時代の朝鮮はどう映ったのでしょうか。
 二十歳のときに書いた「巡査の居る風景」という作品があるそうです。
 川村湊の解説によると、
〈朝鮮人の巡査・趙教英の視点を中心に、1923年12月の朝鮮・京城の市内風景をスケッチしたものといえるのだが、主題としては明確に植民地朝鮮における朝鮮人差別、日本人による朝鮮人への蔑視と、それに卑屈に対応する朝鮮人の無気力さが点描されている〉
といいます。
『プウルの傍らで』という作品もそうです。朝鮮人のまだ幼さの残る娼婦と日本人学生との淡い交流が描かれています。日本人の学生は、金で少女を買いました。しかし、彼女には触れず、一晩よく眠らせてやるという話です。この話を中島敦は、ちょっといい話として書いたのではなさそうです。少女に同情する、良心的な学生には、どうしようもない優越感がしみついています。つまり、これは植民地文学なのです。
 もうひとつの作品「虎狩」は京城中学の同級生、趙大煥にさそわれて、朝鮮人の虎狩を見にいくという話です。このころ朝鮮では少し山にはいると、まだ虎がいたというのは驚きですね。
川村湊はこう書いています。
〈日本人による朝鮮人への蔑視や差別感、それに卑屈に対応する朝鮮人の無力さ、日本人社会へすり寄り、朝鮮人であるということを忘却、または隠蔽して、植民地支配の権力の末端に連なろうとする朝鮮人たち。『虎狩』の「趙大煥」も、そういう意味で、複雑で、屈折せざるをえない人物として描かれている〉
 中島敦がこういう視点をもつことができたのは、宗主国人である自分もまた「被植民地人と同じように、不遇であり、不安であるという意識」を手放すことがなかったからだ、川村は述べています。
「虎狩」はジョージ・オーウェルの「象を撃つ」と並ぶ傑作ではないか、という気がします。「どういうことなんだろうなあ。いったい、強いとか弱いとか、いうことは」と趙大煥は口癖のように言います。そして、虎狩のときから2年後、上級生の日本人に屈辱的な仕打ちを受けたあとに、趙大煥は失踪します。
 私がかれを見かけるのは、それから15年ほどたった東京・本郷の街角。「薄汚い長い顔には、白く乾いた唇のまわりに疎らな無精髭(ぶしょうひげ)がしょぼしょぼ生えて、それが間の抜けた表情を与えてはいるが、しかし、また、その、間の迫った眉のあたりには、何かしら油断のできない感じをさせるものがあるようだ」
 これは、くたびれはて、絶滅寸前まで追いつめられているとはいえ、虎そのものの姿ではありませんか。そんな気がしてなりません。


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