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GHQの神道政策 [柳田国男の昭和]

《連載136》
 こうして長々と書いてきたのは、柳田国男が寝食を忘れて、「新国学談」に取り組んでいた時代の背景を知っておいたほうがよいだろうと思ったからである。かれが『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』に結実する「新国学談」3部作をほぼ書き上げるのは、終戦直後から1946年前半にかけてである。その目的は、戦前の極端な神道(いわゆる国家神道)を批判するいっぽうで、GHQの神社政策に対抗して、日本の固有信仰を守ることだったと言ってもよい。
 前に述べたように、GHQは1945年10月4日の「人権指令」で「思想、宗教、集会および言論の自由を制限するすべての法律およびすべての思想統制法を廃止すること」を指示し、さらに12月15日の「神道指令」で「神道あるいは神社神道へのすべての公的な支援、財政援助、そして政府あるいは官公吏ないし雇員による神道行事へのすべての公式な参加を禁ずる」よう命じた。
 のちにまとめられたGHQの公式記録『GHQ日本占領史』(正確には『日本占領民政活動史』)によると、GHQは日本の神社神道に対して、次のような認識をもっていたとされる。

〈神社神道は自然崇拝、神霊崇拝そして祖先崇拝に源を持つが、明治維新以後、6世紀または7世紀までに出現していた天皇崇拝と太陽神の礼拝派が第1の地位を与えられ、他方でそれを分裂させるような個々の神社にまつわる古代の信仰や神々を極小化あるいは消去する入念な努力がなされた。しばしば世襲であった古い指導部は除かれ、神職は政府の官吏となった。古くしかも細かに違いのある儀式は政府によって定められた画一的な儀式に取って代わられ、古い社は天照大神の礼拝に取って代わられた〉

 非常にわかりにくい言い方で、しかも「神社神道」とか「太陽神の礼拝派」とか妙な表記もあるが、要するに明治期以来の専制的な国家が、神社を国家の統制下に置いたことを批判しているのである。そこから出てくるGHQの政策は、国家と神道の分離をめざすことになり、伊勢神宮、つまり天皇崇拝と天照大神信仰のもとに統合された神社の秩序を、もとの自律的で素朴な形態に戻すことだったと理解することもできる。
 だが、これはあとから徐々に生まれてきた認識ではないだろうか。GHQはそもそも、神道こそ軍国主義・国家主義を助長する元凶とみなしていたはずである。だからこそ、進駐直後、矢継ぎ早に神道の表出を抑える措置をとったのではなかったか。
 いま思いつくままに、それを挙げてみると──
(1)役所や学校から天皇・皇后の御真影や神棚を取り除かせた。
(2)すべての神道神社への公式参拝を禁止した。
(3)内務省神祇院を廃止した。
(4)予算から神社後援項目を削った。
(5)神道の書物の配布を禁止した。
(6)切手や通貨などに神社の絵や図柄を用いることを禁止した。
(7)戦死者をたたえる儀式に公的な援助や参列をおこなうことを禁止した。
(8)新たに軍国主義的な忠霊塔や記念碑、彫像を立てることを禁止し、公共の建物や学校からそうしたものを撤去することを命じた。
(9)1月3日の元始祭、2月11日の紀元節、4月29日の天長節、11月3日の明治節など12の祝日を廃止、それに代わる新たな祝日をもうけた。
(10)伊勢神宮の皇学館大学、東京帝国大学の神道講座を廃止した。
(11)これまでの歴史、地理、公民の教科書を使うことを禁止した。
(12)学校の奉安殿は破壊、教育勅語と御真影にかかわる儀式、皇居遙拝は中止を命じた。
 などなど、である。
 そうした厳しい措置を念頭に置くと、『GHQ日本占領史』の神道に関する記述は、実に物わかりがよく、自然崇拝、神霊崇拝、祖霊崇拝にもとづく神社信仰をむしろ奨励しているかのようにみえる。実際、この公式記録には「神社神道は日本人の意識に深く根を下ろして」おり、その「復活」が予想されるが、「水洗い、お辞儀、拍手を伴う一瞬の祈りの姿勢」からなる神社参拝は、むしろほほえましいものだといわんばかりの記述がなされている。
 GHQが神道に対する認識をあらためるようになったのは、ひょっとしたら戦後、柳田国男が必死で展開した、日本人の固有信仰としての神道を擁護する著作活動の影響も少しはあるのではないか。
 1945年後半の国男の「炭焼日記」には、こんなくだりがあった。

9月8日
米兵東京進駐の日、色々の飛行機低くとぶ。まるで一昨年4月18日のようなり。
11月9日
もと柳[宗悦?]氏の研究所にいたという中尾信君来る。米人の日本研究者四五人に逢ってくれということ、寒いのでことわる。
11月25日
深水正策君[成城学園教諭で画家]来、いわゆる産報[産業報国会]の末路をかたる。二世なる者の多く日本に来たこと、父一人にて壱岐勝本に帰り住みしことなど語る。
11月26日
「満済准后日記」をよむ、[足利]義持、義教の所行、腹の立つことはマックァーサーもかわらず。
12月1日
清彦[孫]と祖師谷駅まで散歩、電車にのってかえる、はじめて米兵と同車、柴田君[成城学園初等学校教諭]に会う。
12月13日
ふみ子[長男の嫁]夕方かえり来る、車中米兵の世話になるといい、チョコレートをもってかえる。
12月24日
進駐軍士官岩崎ドナルド来る。いわゆる第二世、父は久留米にありき。地名のことをききに来た。旧約を好んでよむという。

 ここからは多くのドラマが読み取れるが、細かく論じなくてもいいだろう。マッカーサーにはかなり反発を覚えていたようである。占領軍の影響は身辺にも徐々におよんでいた。
 国男がGHQに協力したというわけではないだろう。協力したといえば、むしろ、戦前、日本陸軍と密接な関係にあった「民族研究所」のメンバーのほうである。とりわけ岡正雄や関敬吾、石田英一郎、江上波夫らが、戦後は一転して、GHQの民間情報教育局(CIE)との深い関係をもったことが、GHQに民俗学の知識が流れこむ要因となったのではないかと思われる。
 いずれにせよ、国男とGHQとの関係には微妙なせめぎあいが始まっている。

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