SSブログ

『ピアノを弾くニーチェ』(木田元)を読む [本]

書評023.jpg
 たしか阿川弘之さんの本で読んだ覚えがあるが、米内光政は同じ本を3度読んだという。最初はざっと読み、2回目は精読し、3回目は考えながら読む。それで、ようやく本が頭にはいり、身につくと考えていた。
『論語』にいう「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」と同じである。大坂の碩学、中井履軒はこれを次のように解釈した。「学ぶとは人に従って指導を受けること。あるいは書物を読んで考え、さらに古人の言行からこれというものを見つけ、それを覚えることだ。しかし、まだ実行に移しているわけではない。習ってはじめて次第に実行へとはいっていく。ただ学んでいるだけでは習うとはいえない」(『論語逢原』)
 メモ魔だったのは柳田国男である。彼の読書法は3、4ページくらい読んだら、1分間くらい休んで考えてみるという方式で、無理をして1冊を全部読み通さなくてもいいし、むしろ2、3冊くらいを交互に読むのがちょうどいいと思っていた。その代わり、頭の中ではきちんとジャンル分けができていて、気になった部分は必ずカードにメモをとっていたようだ。
 それにくらべると、ぼくの読書法はいかにもざっぱくで、サラリーマン時代は通勤電車の中で、適当に時代小説やミステリーを流し読みして、時間をつぶしていた。哲学や思想、歴史の人文書もけっこう買ったけれど、けっきょくそれで満足、そうした本はいまも本棚の隅に眠っている。退職して少しは時間ができたので、そろそろ昔買いこんだ本を読み直そうかなと思っているさなか、本書に遭遇した。
 読書は老後の楽しみとはいうけれど、哲学の権威として知られる著者のあふれんばかりの知的好奇心には圧倒される。もともと満洲に生まれ、江田島の海軍兵学校で訓練を受けているとき、広島に原爆が落とされたのを見たという人だ。放浪と模索の日々の中で、ドストエフスキーとキルケゴールに出会い、さらにハイデガーの『存在と時間』を読みはじめたが、これがさっぱりわからない。やはり大学で専門的な訓練を受けなければ、とても読めないと思い、東北大学の哲学科に進学したという。
 哲学のおもしろさはどこにあるのだろう。著者によれば、常識とか定説が何十年、あるいはせいぜい数百年の枠組みしかもたないのに対して、哲学は千年、二千年のスパンで物事を見たり考えたりする。だから、それ自体あまり現実性はないけれど、哲学的な思考を補助線のように使えば、それまで見えなかった現実の構造が立ち現れてくることがあるのだという。
 ハイデガーはそうしたスケールの大きな哲学者である。どちらかというと、実存主義者とか、ナチスの協力者というレッテルを貼られて、簡単に片づけられがちだが、かれのすごさは哲学の大海に位置づけるときに、はじめて浮かび上がってくる、と著者はいう。『存在と時間』は、かれの目指していた哲学のほんの序の口にすぎなかった。ハイデガーの出発点はアリストテレスであり、未完に終わった『存在と時間』の後半がもし書かれていれば、人間存在の分析にとどまらず、存在一般の意味の究明へといたる壮大な哲学が生まれたはずだと著者は想像をめぐらしている。
 西洋におけるアリストテレスの再発見が、ここではまたものすごいことになっている。2300年前に古代ギリシア語で書かれた書物が現代に伝わること自体が奇跡かもしれない。それは「時空悠久の旅路」だった。アリストテレスはギリシアから中世ヨーロッパへとまっすぐ伝わったわけではない。ローマからビザンティンへ、そしてシリア、アラビア、中央アジア、北アフリカをまわり、ジブラルタル海峡を渡って、スペインやシチリアを通り、ようやくヨーロッパに到着するのだ。その間、1500年近い時が流れている。
 こんなふうに書くと、むずかしい本にみえるかもしれないが、実のところ寝転びながら読める。これからもう一度哲学に挑戦してみたいと思う人のために「哲学の醍醐味が味わえる二十冊」といったガイドもある。文学者や哲学者のエピソード、小説やミステリーの紹介、パピルスや羊皮紙の話、それこそ本にまつわる話題(映画や食べ物の話も)が、きら星のごとくちりばめられている。ああこんなふうに本といっしょに最期まで生きられたら幸せだなと思わず感嘆してしまう一冊である。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0