SSブログ

抵抗と検閲 [柳田国男の昭和]

《連載138》
 7月12日に国男は枢密顧問官に就任する。27年前に貴族院書記官長を辞任してからというもの、官界から遠ざかり、野の立場を貫いてきたのに、それはいったいどういう風の吹き回しだったのだろう。
 枢密院は明治憲法下でつくられた天皇の諮問機関である。議長、副議長と二十数名の顧問官で形成されている。しかし、来年に予定されている新憲法の施行とともに、廃止されることがすでに決まっていた。国男はいわば最後の枢密院顧問官として、新憲法や皇室典範の改正などを審議する場に加わることになったのである。旧憲法から新憲法へと移行する儀式のようなものであることは、最初からわかりきっていた。
 公職追放により、これまで議長を務めていた鈴木貫太郎を含め、数人の顧問官が辞職を余儀なくされていた。そのあと最後の議長となった清水澄は、副議長からの昇格で、新憲法施行後、大日本帝国憲法に殉じて自決することになる。
 国男が枢密顧問官に目されたいきさつは、よくわからない。最後の枢密顧問官のなかには、友人の元官僚、関屋貞三郎や、憲法学者の美濃部達吉、外交官の松平恒雄、伯爵の樺山愛輔、元外務大臣の佐藤尚武などが含まれていた。そのなかで国男は異色の存在だったといってよい。
 山下紘一郎はこう書いている。

〈枢密顧問官の内示があったとき、すでに枢密院の廃止が決まっていたことから、柳田は「人をばかにしたことだ」と憤慨し、当初は承諾しなかったという。だが、「戦後の混乱せる日本を再建するには、野に遺賢なからしむるのが陛下の思し召しだから、国家のために引き受けてもらいたい」という、時の首相吉田茂の懇切な勧めによって、柳田はようやくこれを承知するのである〉

 国男も、日本のため、陛下の思し召し、という文言には弱いのである。こうして、けっきょく枢密院が廃止される1947年(昭和22)5月2日まで、枢密顧問官を引き受けることになった。
 最初に記した靖国神社での講演がおこなわれたのは、枢密顧問官への就任が決まった直後のことである。
「氏神と氏子」と題する講演の出だしで、国男はこんなふうに話している。

〈責むべき者がもしあるとすれば、頑固ないい気になった旧弊人よりも、志は抱きながら実行に臆病であり、または目的達成に悠長すぎた者が、一番に責めらるべきであった。彼らは世の常の戦犯の中には算えられないが、内心はかなりの苦悩をなめている。そうして白状すれば自分などもその一人であった〉

 国男は日本を誤らしめたことに自責の念をいだいていた。「頑固ないい気になっていた旧弊人」が跋扈(ばっこ)するのを抑えられなかったのは、こうすれば厄難を避けられるという説得力ある意見を述べることができなかった臆病さ、あるいは悠長さのためだと感じていた。枢密顧問官という損な役回りを引き受けたのも、あるいはそうした自責の念のなせる業だったかもしれない。
 この講演で国男が話したのは、つまるところ、日本の神道は、そして場合によっては仏教のような外来宗教も、氏人(後世の言い方では氏子)による氏神信仰が核になって発展したものだということである。
 氏神とは先祖神にほかならない。氏人とはその神と氏を同じくする人のことであり、日本では先祖を祭るという信仰は、上下を通じて同じだったと国男は考えていた。
 しかし、先祖神としての氏神という概念は、次第に変容し、拡張されていく。神社が発達し、それに伴って、これまでの氏人ではなく、むしろ神社の地域に属する氏子という呼び方が一般的になってくる。氏子があらわれるのは鎌倉時代末期以降からである。
 氏神はどのようにして、さまざまな神社のなかに収まっていったのだろうか。8世紀の桓武天皇の時代から、それまでの先祖神に加えて、たとえば平野神社のように外戚(母方)の神をともに祭る習慣が生まれた。
 中世以降はこれまでの氏族組織が変化し、多数の家筋が集まって村をつくるのが一般的になった。そのさい、多数の家が共同して、ひとつの氏神を祭るという風習が生まれた。村の統一、村人の融和をはかるために、氏神を合同する神社が建てられ、その神をウブスナと呼ぶようになった。
 神の合同が可能になると、その後は神の勧請も容易になっていく。日本には氏人のいない神社がいくつかある。その代表が八坂、北野、石清水の3社で、祇園、天神、八幡の名で知られている。それは水の神であったり、たたりを抑える神であったり、いくさの神であったりするのだが、いずれも主に後世になってから登場した神で、仏教的な色彩も濃厚に伴っている。ウブスナとなった神社は、こうした神々を勧請していくことになる。
 国男は、この勧請が強制によるものではなく、むしろ人びとの願いによるものだったとして、こう述べている。

〈表面に名はでなくても、氏神によその神を勧請するというのは、元の氏神の思し召し、または許諾という以上に、神が氏人と心を合わせて、新たに第二、第三の神を招待せられるという考え方で、元の祭神の交代または退隠を意味したものでなかったように私には見える〉

 つまり、神社はさまざまな発達を遂げたが、氏神と氏子の基本構造、そして先祖信仰の信仰は、精神の核として揺らぐことがなかったとみるのである。たとえ神社が、寺院的な発想の強い鎮守、あるいは政治的につくられた大社や総社へと姿を変えたとしても、人びとにとって神自体は何ら変わることがなかった。仏教などの外来宗教もまた、ひとつの勧請だったと考えていた節もある。
 国男は「どうすれば、これからやすやすと、内にあるわれわれの先祖以来の信仰を守りつづけていけようか」と問いかけて、この講演を終えている。それが戦後という時代に堪えていこうとする、かれの思いだったとみてよいだろう。

 靖国神社での講演に戦前の講演なども加えて、「新国学談」3部作の最後を飾る単行本『氏神と氏子』が小山書店から発刊されるのは、翌1947年(昭和22)11月のことである。発行までずいぶん時間がかかったのは、GHQの検閲をへなければならなかったためでもある。
 単行本の初校段階で、GHQは「氏神と氏子」の講演に限っても、5カ所の全面削除を命じたことがわかっている。そのことを1970年代末にワシントン市近郊(メリーランド州カレッジパーク)にあるプランゲ文庫で確認したのは、文芸評論家、江藤淳の功績である。いま削除箇所の全部を示すわけにもいかないが、江藤の調査にもとづいて、せめて最後の部分が当初どうなっていたかだけでも示しておくことにしよう。
 国男はこう述べていたのである。

〈最後にただわずか民俗学の徒としてではなく、単に一個の公民として考えてみたいことは、どうすれば、これからやすやすと、内にあるわれわれの先祖以来の信仰を守りつづけていけようかという点である。日本は建国の始めより、ずっと引き続いて国民の固有信仰を公認し、めったにその前途を掣肘(せいちゅう)した形跡がないのみならず、中世以後は特にその中の若干を選定して、敬神以上の特別の保護を与えていた。それを一朝にして撤却せられたということは、たとえ実利のいうに足るほどのものはなくとも、精神上はかなり大きな干渉であった。人心はこれによって萎縮し、また動揺し、再び平静に復するまでには、あるいは混乱の数十年を過ごすことになるかもしれぬ。対処の策としては、自分は努めて自然を期し、強いて消え行くものを引き留めんとせず、ただ多数の常民の心のうちに萌すものを、押し曲げ踏み砕かぬだけの用心をすればよいと思っている。全国キリスト教化の説をなす者が、同胞の間にもあるということは耳にするが、はたしてこの状態のもとにおいて夢みられることかどうか。やれるものならやってみよと、むしろ好奇心をさえ私は抱いている〉

 GHQの神道指令を全面的に批判しているのである。米軍による神道への干渉と、キリスト教化促進を批判したこの箇所は、単行本では頭の部分を除いて全文が削除され、これからもつべき心構えといった抽象的な文言に書き換えられている。
 連合国軍の占領下にあって、たおやかに固有信仰擁護の姿勢を保つ、国男の静かな抵抗がつづいていた。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0