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『戦中派闇市日記』から [柳田国男の昭和]

《連載145》
 柳田国男の評伝とは、まるで関係がなさそうなのに、こうして長々と日本帝国崩壊後の国際情勢について書きつらねてきたのは、帝国の崩壊がどういう事態を招くかをいちおう頭にいれておいたほうがよいと思われたからである。
 国男が老年を迎えるまですごしてきた世界は一変していた。
 しかし、民俗学の戦後を取り上げる前に、いまやふたたび島に戻った日本の戦後直後の状況を、ある日記からもう少しイメージしておきたいと思う。
 たとえば、その日記は1947年(昭和22)10月31日の項に、こうつづられている。

〈日本の軍閥の罪によって、と世界はいう。軍閥の侵略主義によってと彼らはいう。軍はどこを侵略したのか。満州か? 支那か? 仏印か? マレーか? 蘭印か? それならば解放されたというそれらの土地は今どうなっているのか。満州にはソビエットが、支那と朝鮮には米国とソ連が、仏印にはフランスが、マレーには英国が、蘭印にはオランダが、また住民たちの苦しみの上に、相争い君臨しているではないか〉

 かつての軍国少年は、医大生となり、かたわら推理小説を書きはじめ、江戸川乱歩にも認められた。雑誌社からの注文は次第に増えていき、ある月には300枚も原稿を書き飛ばすほどになっている。
 この日記はGHQの検閲をへたわけではないから、当時、日本人の多くがいだいた感情が素直に表出されているとみてよい。上に挙げた一節なども、そうした一例である。当時は、公の場で、日本の軍事的進出を評価するような発言をすることは認められなかった。
 ただし、念のためにいうと、作者はけっして、いわゆる軍閥の行動を擁護しているわけではない。日記はそのあと「われわれを不幸なものにした何者か」を「はっきりしてもらいたい」とつづき、「(それはわれわれ日本人の頭のわるさである)」としめくくられる。つまり、現在の「不幸」の責任を軍に押しつける発想はとらなかったのだ。軍は国民の欲求を代表していた。だが、それを制御する頭脳がおそまつだったのである。
 この日記、つまり山田風太郎の『戦中派闇市日記』を借りて、1947年の日本の光景を、もう少し再現しておくことにしよう。
 相変わらず食糧事情が厳しかったことは次の一文からもうかがえる。

〈本月、米15日まで配給せられ、その後、小麦粉8日分配給せられたり。爾来(じらい)配給途絶す、米食わざること既に半月に垂(なんな)んたり。小麦粉また尽きて、この5日来、大根の煮たるばかり食いおるに、今朝、既に大根の姿見たるだけにて嘔吐を催しそうになる。登校し、昼は新宿の露店にて一皿5円の芋を喰う(1月29日)〉

 米や小麦も満足になかったのだ。配給以上のものを手に入れようとすれば、高い値段を出して闇市で買わなければならなかった。食べるものがなくなって、大根の煮物ばかり食い、しまいにそれを見ただけで吐き気がするようになるという気持ちはよくわかる。芋が一皿5円というのは、安いような印象も受けるが、戦前にくらべて物価はおそらく100倍近くになっていた。
 青年は煩悶する。

〈戦争中、われは決して純真純情の熱血的愛国家にはあらざりき。日本の必勝を信ずる能わず、日本の正義もまた信ずる能わざりき。もっとも米国の必勝もまた信ずる能わず、その正義も信ずる能わざりしことも無論なり。ただ、今の世はあやまてり、今の地球上の人類、ことごとく狂せりと思えり。真の正しきことの言えざる時代なりと憂鬱を禁じ得ざりき。而(しか)して当時多くの青年は酒をのみつつ死の特攻を反覆せり。今は如何(いかん)。今もまた世はあやまてり。今の地球上の人類ことごとく狂せり。真に正しきことは言えざる時代なりと思うこと異ならず、憂鬱禁じ得ず。而して多くの青年は酒をのみつつ女と接吻しダンスに狂う。実に彼らは「生く」。ああ、これを「生く」ると言うか。余らはついに死せるがごとく冷たく憂鬱なる傍観者に過ぎざるか(4月4日)〉

 戦争中は日本もアメリカも、いや世界中が狂っていた。かれは戦争の大義を信じなかった。多くの青年が酒をあびるように飲んで、特攻に出ていくのをみていた。戦後、理性は戻ったのか。いや、時代はかつてにも増して狂っている。多くの青年は日々、酒を飲んでは、女とキスし、ダンスに興じる。自分はこれからどうやって生きていけばいいのか、という思いがある。
 終戦から2年しかたたないのに、ちまたでは、また戦争がはじまるのではないかという不穏な空気が流れていた。

〈米ソの戦争近づけりとの噂ひんぴん。……米ソ開戦の際、日本は如何(いかが)なるべき。弱きものはさらに惨憺(さんたん)たる運命に陥るを恐怖し、強きものは、これをよろこぶ。このままで行かば日本は自滅の外なし。ともかく米国の肩を持ちて、ソ連をヤッつけ、何とか『御破算では』の立場にある日本の算盤に改めて珠(たま)を入れてゆかねばならぬと考う(4月11日)〉

 だれもが、アメリカとソ連の戦争がはじまるのではないかと感じていた。奇妙な戦争待望論があることもわかる。すでに米軍の占領下にある日本が、ソ連の側につくことは考えにくかった。であるならば、この際、日本はアメリカの肩をもって、ひともうけしようではないか。のちの朝鮮戦争特需に結びつく発想である。
 そんな打算的なことを考えながらも、青年には時に愛国の思いが胸にあふれることもあった。

〈昨日寝転んでいたらラジオで、24日の慶応90周年記念日に、天皇陛下が慶大に行幸遊ばされた時の録音を放送していた。そして君ヶ代の歌声を耳にした。この歌声を耳にしたのは実にあの8月15日以降一度もないから(8月15日に君ヶ代を歌ったかどうか記憶にないが)満2年来のことである。何も日本が独立を再有した讃歌だというわけではないが、それでもこの歌を耳にすると生まれて以来あの日までに繰り返し繰り返し歌った『君ヶ代』即ち天皇時代が湧然と心中に満ち湧(わ)きかえって感無量の想いがあった(5月26日)〉

 山田風太郎は愛国の人なのだ。
 日本人はかつての軍国主義をきらい、アメリカの占領政策をよろこんで受け入れたという説がある。しかし、その心情がなかなか複雑だったことは、次の一文をみても、すぐに理解できるだろう。

〈世界は民主主義によって統一さるべく、民主主義は米国の民主主義が唯一つであるなど非民主主義極まる言動をなす米国は不倫の極みであって、世界が羨望するは米国の主義でなくその資源であって、あれくらいの天然資源を持っていれば、どんな国がどんな主義を抱いていたって民衆は太平楽をきめこんでいられるというものである。むしろ米国の主義押し売りの態度こそ世界の今の不幸と不安の原因であり、また遠からず米国自身の不幸の原因となるであろう(5月28日)〉

 これは、その後のアメリカの世界政策が失敗に終わることを予言した、みごとな分析といわねばならない。いずれにせよ、日本人はマッカーサーの改革を手放しで喜んでいたわけではないのである。
 それは憂国の人、柳田国男にとっても同じである。国男は設立されたばかりの民俗学研究所を拠点として、戦後に新たな道を開こうとしていた。

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