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互酬論──『世界史の構造』を読む(2) [本]

 つづいて第1部の「ミニ世界システム」を読む。 「ミニ世界システム」とは、国家形成以前の世界システムを指すと考えてよい。
 著者は氏族社会が本格的にはじまるのは、遊動狩猟採集民が定住してからだと指摘している。そこでは狩猟採集に加えて、初期的な農業・牧畜がおこなわれ、政治体制としては首長制がとられていた。
 氏族社会は高く評価されている。

〈私が注目したいのはむしろ、備蓄から生じる不平等が階級社会や国家に帰結しなかったというほうである。……そして、その原理が互酬制であった。その意味で、氏族社会は「未開社会」ではなく、高度な社会システムだといわねばならない〉

 氏族社会の互酬制は、商品交換とは異なる交換様式であり、国家解体のキーとなる原理として位置づけられている。著者が人類学の知見にもとづいて、世界史の構造を理解する根本概念を、生産様式ではなく交換様式とした理由がわかりそうな気がする。
 互酬とは贈与と返礼の相互関係だと考えてよい。
 3つのレベルが考えられる。

(1)親族内
(2)村落内
(3)共同体間

 とりわけ注目されるのが、共同体間の互酬である。
 マリノフスキは気前のよい贈答が順に島々をへめぐるクラ交易なるものを発見した。決められた場所に品物をおき、互いに姿を現さないで交易する「沈黙交易」というのもある。派手な贈与の祭り、ポトラッチもよく知られている。
いずれも互酬の形態にちがいない。
互酬原理のもとでは、共同体間に均衡が保たれ、共同体内でも富の蓄積がなされないから、国家がつくられない。

〈首長の地位は、得た富を贈与すること、つまり惜しげなく振る舞うことによって得られるが、逆に、それによって、富をなくしてしまい、その結果、首長の地位をなくしてしまう。こうして、互酬原理が階級の出現、国家の形成を妨げる〉

 とりわけ互酬と商品交換が異なる理由を、著者は次のように説明している。

〈商品交換においては、所有権が一方から他方へ移る。だから、貨幣をもつことは、他の物の所有権を獲得する権利をもつことになる。したがって、貨幣を蓄積しようとする欲望(物神崇拝)が生じるのである。一方、贈与においてはそうではない。贈与において、使用権は移るが所有権は移らない。贈与された物は一種の貨幣となるのだが、それは貨幣とは違って、他の物を所有する権利ではなく、逆に、物を与える義務(お返しの義務)をもたらす。つまり、貨幣が蓄積や所有の拡大を促すのに対して、ハウ[呪力]は所有や欲望を否定する力として働くのである〉

 氏族社会には、富や権力の偏在を許さない力(強迫性)がはたらいているのだ。
 ここで描かれているのは、過去に実在した氏族社会でも、いまも世界に点在する未開社会でもない。大胆な抽象によって、氏族社会のもつ脱国家・脱資本という高度なシステムが開示されているのだといってよい。
 1925年にモースが発表した『贈与論』が学界に衝撃を与えたのは、商品交換経済以外のシステムが現に機能することが立証されたためである。だが、視線は柄谷の考えているのとはちがい、モース自身の発想は逆に向けられていたような気がしてならない。
 つまり、モースが感じたのは、自然経済で交換などなされないとみられていた未開社会に実は贈与と返礼という交換関係のルールが存在することへの驚きのようなものだ。そして、モースは、贈与が現代にも商品交換関係を補完するかたちではいりこみ、ある種の社会的規範を形成していることに気づいた。
 互酬は商品関係の否定としてではなく、商品関係の前段階における交換のルールとしてとらえられたのではないだろうか。
 そして、われわれが未開とあなどっている氏族社会から学ぶべきことがあるのではないか、とモースの問いはつづくはずだ。
 柄谷の図式は、国家や資本、貨幣、所有権、商品交換関係の不在を氏族社会に投影することで成り立っているような気がしてならない(呪術についてのすぐれた分析は認めるにしても)。
 互酬制から学ぶべきことは、もっと別にあるのではないか。

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