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伊波普猷の死と沖縄への思い [柳田国男の昭和]

《連載153回》
 1947年(昭和22)8月13日、『古琉球』の著書や『おもろそうし』の研究者として知られる伊波普猷(いは・ふゆう)が東京で亡くなった。享年71歳。
 伊波のふるさと、沖縄は日本から分離されて、アメリカの軍政下にあり、かれの那覇の実家も戦争中に焼失して、跡形もなくなっていた。普猷は「島」に思いをはせながら、悲嘆のうちに東京で学究としての一生を閉じたのである。
 死のひと月前までつづっていた「沖縄歴史物語」の最終部に、普猷は地球上で帝国主義が終わりを告げないかぎり、沖縄人は「にが世」から解放されて「あま世」を楽しむことができないとつづっていた。
 10月25日には、その追悼講演会が国学院大学で開催された。
 折口信夫らとともに講演会の壇上に立った柳田国男は、1922年(大正11)に沖縄を訪れたときの普猷との出会いを振り返りながら、「おもろ」研究をはじめとしてかれが残した業績を紹介し、その未完に終わった仕事をだれかが引き継がねばならないと話している。

〈……伊波君の晩年は、ほとんとあきらめに近い静穏な心境で、こつこつと注釈の道のみを進んでおられました。若いころにはまたまえに申したように、政治や社会改良の方面に心力を割いておられたこともありました。それにまた生活上の必要もあって、長命とはいいながらも純なる学問のために捧げられた時間が存外に少なかったのであります。……よほど幸福な、また脇目も振らぬような人でも、やっぱり時間の足らないことは五十歩百歩であります。だから生前にもほどよく手分けをして、互いに補いあうことを努めなければなりませんが、死後なおさらに故人の遺業をよく見きわめて、そのなすべくしてなしえなかった部分を引き継ぐ者が出てくることを必要とするのであります〉

 人を語ることは、みずからを語ることでもあるが、国男もまた普猷の業績に触れながら、同時にみずからを語っているのだ。
 研究すべきことはいくらでも残っているのに、時間はない。
 普猷に死なれてみれば、自分がしばらく遠ざかっていた「沖縄」が大きく心にのしかかってくる。
 国男は講演でも、こんなふうに話した。
 
〈いまのわれわれの立場から申しますと、世界広しといえども、地球に人の住む島が1万以上、2万3万あろうとも、沖縄みたような閲歴をもち沖縄のいまあるごとき文化段階におる島は、おそらくほかにひとつもないと思っております。ことに久しい以前に手を分かった同じ民族が、茫洋たる大海に隔離せられて、思い思いの割拠生活を続けていたという例もめずらしいのであります。これはつまり人類全体の大きな経験でありまして、単なる一個の大和民族ないしはアマミコ種族というものの、独占してしまってよい知識ではないのであります〉

 アマミコは沖縄の島々をつくったとされる祖神で、アマミコ種族は沖縄人だといってもよい。
 それにしても、この発言には国男の考え方がよく示されている。つまり、同じ民族が海をへだてて別々の発展をとげるうちに、沖縄には日本の本土ではもう消えてしまった文化、とりわけ固有信仰やそれを支える言語が、目で見、耳で聞くことのできる現実として保存されていることに注目しているのだ。沖縄の歴史が「人類全体の経験」に大きな意味をもつのは、そこに古き日本人の家族生活や言語、固有信仰の跡が残され、大きくいえば、人類文化の変遷の鍵が隠されているからだといってもよかった。
 だが、戦争によって、その貴重な資料は失われ、古き世を伝える故老たちももみまかってしまった。国男の焦燥は、亡き普猷にも遠慮なくぶつけられる。

〈それからいまひとつ取り返しのつかぬことは伊波さんの東京移住、その感化の及ぶところを広くしたという利益があった代わりに、郷土の現実の言葉との親しみを薄くしました。おもろの理解を助ける資料は、別に文書や金石文が多くあるわけではなく、大部分は島の片隅にまだ残っていた故老たちの口語だったのであります。それが今度の思いがけぬ戦禍によって、ほとんと望みなく絶滅したらしいのであります〉

 国男がふたたび南島に思いをはせるのは、普猷の挫折と悲嘆をみずからも引き受けようとしたためではないだろうか。
 南島への思いがどのような動機にもとづいているにせよ、すさまじい戦禍をこうむり、米軍の占領下におかれた沖縄に、国男が晩年の情熱をそそぎこんだことは事実である。
 12月には国男が編集した『沖縄文化叢説』が刊行される。沖縄文化論集といってもよい、この本には、国男自身の論考のほか、伊波普猷の遺稿や比嘉春潮、島袋源七、宮良当壮などの力作が掲載されている。
 その序文に国男は「いわゆる三十六島の古来の住民が、大和島根の人々と根元においてひとつだということが決定しないと、種々なる推論は前提を欠くことになるのだが、この点はすでに久しく心づかれ、また八九分通りまではもう証明せられてもいる」と書いている。
 若干の保留つきではあるが、国男は大和と沖縄は「根元においてひとつ」だと思っていた。ここに大和の優越性という政治意識を読み取る必要はない。読み取るとすれば、むしろ現実の差別を受けていた沖縄と沖縄人に対する擁護のほうである。
 注目すべき談話が残されている。それは長野県飯山の民俗研究者、大月松二が終戦直後の1945年11月に成城の柳田邸を訪れたときに記録された聞き書きで、そのとき国男はこう語っている。

〈沖縄は土地が痩せて、生産のない土地で労力のみある国である。行政費その他治めるに金がかかる。アメリカでは自分の領地として長くもっておるとは思わない。その点楽観しておる。ただ今は要塞をつくり、すっかりかわっているが、連邦制にでもなり、いつか日本にかえると思う。今は文化がこわれ、いろいろな点ですっかりかわっている。けれどもしずかに考えれば人種的にみても日本へかえらなければならないと思う。ただロシヤ[ソ連]と事をかまえる恐れのある間は駄目だが〉

 沖縄について政治的なことをほとんど書かなかった国男が、めずらしくもらした政治的見通しだといってよい。「連邦制」という発想がおもしろいが、それはともかくとして、この予言がその死後10年後に実現することを思えば、国男の眼力はなかなかに鋭かったのである。



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