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三たび春を迎う [柳田国男の昭和]

《連載154》
 民俗学研究所が動きはじめている。
 研究所が文部省から財団法人として認可されるめどは、ほぼついてきた。とはいえ、問題はその運営に必要なしっかりした財政基盤であるにちがいなかった。国男はそのひとつの柱を、社会科教科書の編纂に求めていたと思われる。
『柳田国男伝』によると、国男は1947年7月5日に文部省関係者を研究所に招き、同人らも入れて社会科の問題を話し合っている。10月27日には自身が文部省の社会科教育研究会の委員を引き受けている。さらに翌年1月10日には成城学園や明星学園の小学校教師らを研究所に招いて、社会科についての座談会を開くという熱心ぶりだ。
 三省堂とのあいだには、民俗学研究所から教師用の「社会科叢書」を発行するという契約を取りつけてある。最終的にめざすのは、あくまでも社会科教科書の編纂だった。しかし、その作業はきわめて難航し、社会科教科書が実際にかたちとなり、実業之日本社から発行されるのは1953年(昭和28)と、実に多くの時日を要することになる。
 その間、東京書籍からは国男に「国語」教科書監修の依頼があり、1948年5月にこれをしぶしぶ引き受けた国男は、研究所の大藤時彦(おおとう・ときひこ)をみずからの代理人に立てて、岩淵悦太郎など信頼できる編集委員を集めて、その作成にあたった。小学校、中学校の国語教科書「新しい国語」ができあがるのは、翌49年春のことだ。
 こうして研究所は、本来の民俗学の研究に加えて、社会科と国語の教科書づくりに忙殺されていくことになるのである。

 国男には研究所とは別に、みずからもやりとげねばならない仕事があった。
 実業之日本社からは、最終的に6年がかりで12巻からなる「柳田国男先生著作集」の刊行がはじまっている。
 さらに1948年だけをみても、『西は何方(どっち)』『村のすがた』『十三塚考』(女婿、堀一郎との共著)『婚姻の話』などの新刊がでている。戦後の出版ブームを抜きにしては考えにくい現象にちがいない。
『婚姻の話』を除いて、その多くは戦前ないし戦中に書きためた旧稿からなる。とはいえ、それに目を通し手直しを加えるだけでも、作業量は半端ではなかっただろう。
 講演や談話、座談会の依頼、それに雑誌や機関誌に執筆する原稿もあった。数えで74歳の老人は、まだ働きつづけている。
 たとえば「三たび春を迎う」と題する談話を取りだしてみよう。1948 年元旦号の「日本読書新聞」に掲載されたものだ。
 はじめに国男はこう話している。

むずかしい世の中ではあるが、終戦後三たびの新年を迎えようとしている。新年には過去をふりかえるより、先へ先へと進むのがよい。日本の現状に対する不服不満はいくらでもあるが、いまさらそんな不服、不満をならべたって無論はじまらない。戦争はどのみち幸福な刺激だったとはいわれないのである。

 いわゆる東京裁判が1年半前からはじまっていた。国男の発言にも代表されるように、国民のあいだから戦争責任を追及する声はあまりあがっていない。ただし、ほとんどすべての人びとが共有していたのは、むしろ戦争だけはもうごめんだという思いだった。
 新憲法施行直前の総選挙で誕生した、片山哲を首相とする社会党・民主党の連立政権は、国民の期待に反して迷走をつづけていた。インフレはとどまるところを知らず、だれもが将来の生活に不安を覚えていた。
 少し先取りして、政治の動きを追っておくと、片山内閣は政治運営に行き詰まって、3月に崩壊する。そのあとを継いだ民主党中心の芦田内閣は、物価は戦前の110倍、賃金は57倍にするというガイドラインを示し、国民生活の安定をはかった。だが、その矢先に昭電(昭和電工)疑獄と呼ばれる贈収賄事件が発生し、芦田自身にも嫌疑がかかって、10月に総辞職するのである。
 こうして、社会党と民主党を核とするふたつの連立政権が空中分解を遂げたあと、ふたたび吉田茂にお鉢が回ってくることになる。
 国男自身は新年の談話で「いまさら不平、不満をならべたって無論はじまらない」と語っている。それよりも「先へ先へと進むのがよい」のだが、それと裏腹に「こんな状態[物価高]がいつまで続くのか、まさに非凡なる悪政治だというほかない」とぐちも出るのは、終戦3年目の政治状況がきわめて不安定だったことによる。
 だが、国男がそれよりも気にしていたのは、日本人自身が自分の国に対して無関心になりはじめていること、「相互の知識の交流のないために国内の人間でありながら日本を知らないという状態」が発生していることだった。
 日本人のふるさとである村のことが忘れられようとしている。
 国男は横光利一の『夜の靴』や井伏鱒二の『多甚古村』などに、農民生活の奥底が意外に描かれているので、せめてそれらを読むよう勧めている。このあたりは「日本読書新聞」の読者に向けての読書案内ととられなくもない。
国男は連合国軍総司令部(GHQ)の推し進める「宗教の自由」をちくりと皮肉ることも忘れていない。「宗教の自由」のねらいは、キリスト教の布教にあるが、それが成功を収めるとは思わない。実際に村で広まっているのは、キリスト教どころか、昔ながらの迷信や新興宗教めいたものだ。神社を中心とする信仰はこれからどうなっていくのだろうか。
 日本中が自分のことにかまけて勝手放題となり、お互いに知り合うこともなく、バラバラになってしまう事態を国男は恐れていたのかもしれない。
 談話は次のように結ばれている。

三たび春を迎えんとして私は和気回復を唯一のモットーにして、これに向かってすべてを集中せねばならぬと思う。それには人々が互いに知り合うこと、人々の無知をなくすること、これが私の新たな年を迎えるにあたっての切なる念慮である。

 和気とはなごやかな気分にほかならない。
 だが、そんな気分とは裏腹に時代はすでに東西冷戦に突入していた。
 日本でもまもなく、いわゆる「逆コース」がはじまる。アメリカは日本を「共産主義の防波堤」と位置づけ、GHQ民政局を中心とした民主化政策を見直そうとしていた。共産主義を取り締まり、親米政権を樹立し、日本経済を立てなおす方向へ舵を切ろうとしていたのである。

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