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親分の資格──『田中角栄の昭和』を読む(3) [本]

保阪正康はこう書いている。

〈「田中角栄」という政治家は、平気で形而下の言を弄し、人の欲望を「地位」と「カネ」で割りきった。決して高邁な言を用いずに庶民の利害特質に満ちた演説に終始するという戦後政治家の象徴であり、時代の風潮やこの期の日本人の心情にもっとも照準を合わせた指導者として名を残すことになった〉

まったくそのとおりなのだろう。もっとおカネがほしい、もっとえらくなりたい、というのは、だれしも願うことだ。角栄ならば、そういう夢をかなえてくれそうだという雰囲気が、かれの人気を支えていたといえるだろう。
ところが、こうした幻想は諸刃の剣でもある。政治家、とくにトップの地位に立つ政治家には、無私であることが望まれる。しかし、当の本人が、実はカネと権力の権化だとわかれば、どういうことになるだろう。大衆的な人気はたちまち崩れていく。政治家の振りまく幻想と現実のギャップが露呈し、さらに庶民がみずからの生活と引き比べての政治家の実像に気づくとき、田中の支持率は急速に低落していくことになる。
とはいえ田中幻想は長くつづいた。
ほかの政治家には見られない田中の特質は、みずから政治資金を生みだすマシーンをもっていることだった。岸内閣で、郵政大臣に就任したのは39歳のときだが、このときも多くのカネが動いたとされる。
とはいえ、かれが勝ちとった地位に安閑としていたわけではない。よくはたらいたし、テキパキと案件を処理した。とかく規制をかけたがる官僚の筋立てにはかならずしも従わなかった。官僚にはない実業家のカンが動いたのだろう。
いつも権力の中枢にいる。それが田中のポリシーだった。これはサラリーマン社会で出世する秘訣を考えてもよく理解できることだ。権力の中心に近づくことが、地位の上昇を保証するのは、おなじみの光景といえるだろう。
田中の政治上の盟友となったのが大平正芳だったと、保坂は指摘している。そのことによって、権力の中枢にいるといっても、単独ではなく、いわばタッグが組めるようになったのだ。
田中の官僚操作法は、自分の政策理念を官僚に押しつけるというやり方とは、むしろ正反対だったように思える。かれ自身は、考え抜かれた政治理念をもっていたかどうかさえ疑わしい。
田中はおそらく接触する官僚の経歴や誕生日をすべてのみこんでいる。そのこと自体が当の官僚を感動させるし、場合によっては気前のよいふるまいが忠誠心をひきだしたにちがいない。官僚の話をよく聞いて、時には自分の意見もはさみつつ、相手のやる気をおこさせるというやり方は、きわめて日本的な手法だった。
そして、公的資金(予算)をばらまくことによって、民間の活力をよびさますというのが、田中の時代の政治スタイルだった。だが、日本が次第に国際経済社会のなかで、それなりの位置を占めるようになると、経済政策も単純な成長一本槍では片づかなくなる。そうした日本経済の将来についてのビジョンを田中はほとんどもっていなかったのではないか。
それよりも大蔵大臣をへて自民党幹事長に就任した田中がいだいた理念は、むしろ数への信仰のようなものだった、と保阪はみている。つまり、政治は数だという信念。それを実現するために、また自前のカネが動いていく。
数とカネによる虚像が、田中を総理への地位に押し上げていったのだ。

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