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昭和天皇への進講 [柳田国男の昭和]

《連載163回》
 1948年1月28日、国男は「講書始(こうしょはじめ)の儀」で、昭和天皇に「富士と筑波 常陸風土記の一節」を進講した。毎年1回、著名な学者の講義を天皇が聞いて、読書始めとすることが、明治以来、皇室の習慣となっていた。
 この日も天皇、皇后をはじめ、皇太子などの皇族、文部大臣、宮内府職員、日本学士院会員が列席するなかで国男の講義がはじまった。
 前日、国男は民俗学研究所の二階の居室にこもったまま、一歩も外にでなかった。みずから潔斎を課し、籠もっていたのだろう。
 国男は昭和天皇の「師父」をもって任じていたという。かつて大正天皇に扈従(こしょう)し、戦後も枢密顧問官として昭和天皇にまみえ、御前会議で国語教育について進講したこともある。国男には、皇室に対する強い尊崇の念があった。占領下にあっても、皇室のあり方をあやまらせてはならないという思いが、天皇の「師父」たらんという意識と結びついていたのにちがいない。
「常陸風土記の一節を進講申し上げます」と口を開いた国男は、まず風土記とは何かを説明し、常陸風土記にはとりわけ伝説が多く含まれていることを紹介する。そして、なかでも興味深い富士と筑波の伝説をとりあげると前置きしてから、その本文を読み上げ、解説を加えている。
「富士と筑波」の内容は次のようなものだ。

 むかし親神のみことが、息子の神々のところを回ろうと、最初に駿河にある富士山を訪ねました。日が暮れてしまったので、とまらせてくれと頼みます。ところが、富士の神はいま新嘗(にいなめ)をしている最中で、物忌みをしているので、たとえ親でもとめるわけにはいかないと、つきはなすのです。
 そこで親神は怒って、次に筑波山に登り、ここでも一晩とまらせてくれないかと頼みます。すると筑波の神は、こよいは新嘗の夜ですが、せっかくのお越しですからといって、食事なども出し、丁重にお迎えしたので、親神はお喜びになりました。
 そのときから富士山にはいつも雪が降り、登るのもむずかしいのに、筑波山には人びとがつどい、舞い歌い、飲み食いして楽しむようになったのです。

 国男はこの物語を紹介したうえで、それを次のように説明している。

〈この伝説の起こりは、おおよそはわかっております。富士はあのとおりけだかい山の姿でありますが、夏まで雪におおわれて人の登りがたい山と、まだあのころはなっておりましたに反し、筑波山はこの当時、しきりに里人が登って神を祭り、かつともどもに遊び楽しむ山でござりました。たぶんは東西にふたつの山のともに見える関東地方、なかでも利根川より東の常陸の人びとが、かつは所びいきに、こういう解釈をしたのであります。これも万葉集に出ておりまするし、またこの風土記の次の章にもありますが、この山には特に春秋の好い季節に、若い男女が集まってまいりまして、歌いつ舞いつして終日遊ぶ習わしがありました。富士と筑波のこのひとつの物語のごときも、はじめはその山遊びの日において、ある一人の芸能にすぐれた者が歌いだしたものであったかもしれませぬ。この民間の新嘗祭が、遠く大昔に始まった神秘の行事でありますために、これをきいた人びとは深い印象を受けまして、古老になるまでも永く記憶していたものかと思われます〉

 このあと話は、例によって横に広がり、山と山とが競いあった神話、新嘗祭の物忌みについて、さらには旅人を冷遇した村人が罰を受け、歓待した村人が厚く賞されるといった民話へとつづき、民間では旧暦11月23日に若い尊い神が国めぐりをすると信じられていたという結びへと導かれる。
「この世の労働の単純でありました昔の人は、かえってわれわれよりは綿密に、自然の移り変わりに注意を払い、それと信仰を結びつけて、許さるるかぎりの想像力を働かせて、古来の大神を礼讃していたのではないかと思われます」
 これが、この日の進講をしめくくることばとなった。
 国男は何が言いたかったのだろう。
 山下紘一郎は『柳田国男の皇室観』のなかで「柳田は、民間の新嘗祭が稲作生活の伝統に深く根を下ろした祭事であり、このことを、宮中の新嘗祭を親祭する立場にある天皇に、しかと認識してもらいたい、という決意でこの講書始の儀に臨んだのである」と指摘している。
 たしかに、そのとおりだろう。
 国男自身も「新嘗祭がひとり宮中の御祭であっただけでなく、少なくとも東日本の各地では、村の農家でもこれを営みました」と述べている。
 だが、新嘗祭の重要性に加えて、別のニュアンスも感じられる。
 国男は高くそびえて近づきがたい富士山と、民が親しみ、集まってくる筑波山との比較のなかに、戦後の天皇のあり方を示唆したのではないだろうか。また、1946年からはじまった天皇の全国巡幸を、大神の国めぐりにたとえて称賛したとも考えられるのである。
 ケネス・ルオフは『国民の天皇』のなかで、こう書いている。

〈[1946年から]54年の北海道までの[全国]巡幸で、天皇は増産に努める労働者を励ましただけではなく、戦争で負傷したり、愛する人を失ったりした人々を慰めた。空襲で家をなくした人々に声をかけるなど、さまざまなやり方で国民と接した。巡幸は勝利を祝うものでも壮観さのあふれるものでもなかった。自動車と汽車による移動には、少しも時代錯誤めいた優美さはなかった。日本はどこかしこも荒れ果てており、天皇は飢えてやけっぱちになった住民を、がんばれと励まし続けた〉

 日本は復興に向けて歩みはじめていたのだ。

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