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超訳「万葉集」[45-56] [超訳「万葉集」]

[第1巻のつづき、持統天皇の時代です。息子の草壁皇子が亡くなったあと、持統天皇は都を明日香から香具山のふもとの藤原に移します。そして持統天皇が退位したあとには孫の文武天皇が即位します]

■軽皇子(かるのみこ[のちの文武天皇(683-707、在位697-707)、天武・持統天皇の孫、草壁皇子の子]が安騎(あき)の野[現奈良県宇陀市]に宿りされたときに、柿本人麿のつくった歌
[45]
あまねく国を治められる
わが大君
空高く照らす
日の御子(みこ)は
神のごとくあられます
その御子が
神々しく
堂々たる
都をあとに
山深い
泊瀬(はつせ)の山々[現在の長谷寺近辺]の
巨木立つ
険阻な山道を
岩や木々おしわけ
小鳥鳴く
早朝に越えられ
ほのかな光あふれる
夕方になれば
雪がちらつく
阿騎(あき)の大野に
ススキや小竹を並べ
草を枕に
宿りをされるのです
お父君が狩猟をされた
昔をしのばれて

■関連の歌
[46]
阿騎の野に宿る
旅人は
だれもかも
眠ってなど
いられません
それほど昔のことが
次々と思い浮かびます

[47]
ここは草が生い茂る
荒野です
けれども
黄葉のように
はかなく亡くなられた
父上のことを
しのばれて
やってこられました

[48]
東の野に
輝かしい朝の日が
さしているのがみえます
ふと、ふりかえれば
月が西に傾き
消えようとしています
[父君が皇子の門出を祝福されているのでしょう]

[49]
日の御子[草壁皇子]が
馬を並べて
出猟された
そのときが
またやってきます
[ご立派になられたことです]

■藤原宮[草壁皇子の死後、持統天皇が遷都、現橿原市高殿町、690年]を造営した民のつくった歌[実際は柿本人麿の歌]
[50]
あまねく国を治められる
わが大君
空高く照らす
日の御子(みこ)[持統天皇]は
あらたえの藤の名をもつ
藤原の野辺に
しろしめす国を
ご覧になろうと
都の宮を
立てようと
神のごとく
お思いになったのでしょう
天と地に助けられて
水豊かな近江の国は
田上山の木を切り
荒削りのヒノキを
宇治川に浮かべると
それを取り集めようと
立ちはたらく民人は
家のことも忘れ
わが身もかえりみず
鴨のように水にはいって
作業します
そして永遠の都をつくるため
切り出した材木を
泉川に運びこむため
多くのいかだを組んで
川をのぼってくるのです
その懸命な働きぶりをみても
みかどがいかに偉大かがわかります

■明日香宮から藤原宮に移ったあと志貴皇子(しきのみこ)[天智天皇の皇子、天武・持統朝にあっては皇位と無縁だった、668?-716]がつくられた歌
[51]
采女の袖を
明日香の風が
ひるがえしていく
もう都は遠い
風ばかりが
いたずらに吹く

■藤原宮の泉の歌
[52]
あまねく国を治められる
わが大君
空高く照らす
日の御子(みこ)[持統天皇]は
あらたえの藤の名をもつ
藤原の野辺に
新たな朝廷をつくられました
その埴安(はにやす)の池のほとりに
立たれて
ご覧になれば
大和の香具山は
東の御門の方向に
春山のうっそうたる姿をみせます
みずみずしい畝傍(うねび)山は
西の御門の方向に
めでたくたたずんでいます
耳成山は青々と
北の御門の方向に
堂々とそびえます
そしてあの吉野の山は
南の御門の方向
はるかかなたに遠望できます
神々もよくご存じのこの都の
天の下、日の下にある
泉の清水が
変わることなく湧きだしますように

■関連の歌
[53]
藤原の大宮に
仕えるため
次々と育つ
おとめたち
何と
うるわしいことだ

■701年の秋9月、持統の先帝が紀伊の国にお出でになったときの歌[坂門人足(さかとのひとたり)の作]
[54]
神のいます巨勢山(こせやま)の
つらつら椿を
つらつら見つつ
いつまでも
美しくあれ
巨勢[現御所市]の春野は
[先帝がいつまでもお元気であられますよう]

[55][調首淡海(つぎのおびとおうみ)の作]
麻裳を着るという
紀の国の人が
うらやましい
行きも帰りも
真土山(まつちやま)[現橋本市]を
見られるのだから

■別の本に載る歌
[56]
川野辺の
つらつら椿
つらつら見つつ
いつまでも
美しくあれ
巨勢の春野は

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