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『竹内好』(鶴見俊輔著)を読みながら思うこと [本]

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 巻末に収録されている年譜をみて、ことしは竹内好の生誕百年であることに気づいた。オビにもたしかにそう書いてある。
 ちいさな集まりで二、三度、見かけた人が、もし生きていれば100歳かと思うと、特別な感慨をいだかざるをえない。
 昔は竹内好の本をあおぎみるような気持ちで、何冊も読んだものだ。「たけうち・よしみ」ではなく「タケウチ・ハオ」などと呼びながら。
 中国の共産党政権のとらえ方については、ちょっと身びいきが強すぎるような気がしていた。とくに中国が原爆実験に成功したことを喜ぶような口調には反発をおぼえた。ぼくなどは、中国は一種のスターリニズム国家であり、社会主義経済はどちらかというと大失敗だ、と当時から考えていた。
 それでも、あのころ中国のことを知りたいと意気込んでいた背景には、おそらく竹内好の影響がある。学生友好団に加わって、国交回復の1年前、中国を訪れたり、中国語を勉強したり、友人と中国物産販売のキャラバンを組んで長野などを回ったりしたことも、いまとなってはなつかしい。
 最近は、中国のことをあまり思わなくなった。何か事件が起きて、大騒ぎになったときに、新聞やテレビを眺めて、その都度、断片的な感想が口をつくだけのことだ。とりわけ近ごろは中国に腹を立てることが多い。
 そんなふうに冷めた気分でいるとき、駅前の旭屋で、この本を見かけ、衝動的に購入した。なつかしさに負けたのかもしれない。
 くり返しになるが、中国(やアジア)のことを意識するようになったのは、大学生時代に竹内好を読んだからだ。おそらく、この経験がなければ、ぼくは単純な日本中心主義者か、西洋かぶれのマルクス主義者に収まっていただろう。そうならなかったことを竹内好に感謝しているし、いまもかれを師のように思っていることはまちがいない。
 それでも、このところハオさんの本を読むこともなくなっていたのは、1970年代はじめと現在の状況が、あまりにちがってしまったからだろう。まして、ぼんやりと毎日をすごすことが多い近ごろでは、かつてあおぎみた師はますます茫洋たるかなたにある。
 鶴見俊輔の評伝は、そんなぼくを、ふいにこれまで考えたことのない新しい局面へと連れ戻してくれた。あおぎみるだけで、想像だにしなかった等身大の竹内好が、突然、眼の前にあらわれたのである。こんなハオさんとは出会ったことがない。傷つきやすい魂がふるえ、もだえているのを見た。
 荀子にこんな箴言(しんげん)があるという。
 訳してみる。

  どこまでも信じることが信である。
  どこまでも疑うこともまた信である。
  発言することは知につながる。
  沈黙することもまた知につながる。

 竹内好はこの箴言が気にいっていたという。かれの評論は、こうした思想の格闘の場をへて、立ち上がっているのだ。

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