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『菊と刀』をめぐって [柳田国男の昭和]

《連載167回》
 国男がベネディクトの『菊と刀』をめぐって、パッシンやベネットとどういう会話を交わしたかは伝わっていない。それは、とくに神道の解釈をめぐる問題だったとされるが、残念ながらそれ以上のことはわからない。
 ところがこの年、日本で翻訳出版され、ベストセラーとなった『菊と刀』について、国男は的確に問題点を指摘した書評を残している。それが1950年(昭和25)5月号の「民族学研究」に発表された「罪の文化と恥の文化」と題する論評なのである。
 この論評が興味深いのは、民俗学による民族学批判がなされている点かもしれない。国男は他民族を分析する民族学(あるいは文化人類学)が、自民族がみずからの国を知るための民俗学によって検証されなければ、その知識はひとりよがりの思いこみになってしまうことをさとした。それだけにとどまらない。国男はこの本から刺激を受けて、日本人の心理的特性、ないし弱点についても、みずからの思考を推し進めているのだ。
 ルース・ベネディクトが戦時中に『菊と刀』を執筆した動機は、アメリカ人にとってもっとも異質な敵といえる日本人の心理を探るためだったとみてよい。優しくて優雅な「菊」と、残忍で暴力的な「刀」という、ふたつの心性を日本人がなぜあわせもっているのかが謎とされていた。
 ベネディクトは日本を訪れたことはなかったけれども、当時、強制収容されていた日系アメリカ人の調査をおこない、「文化の型」という人類学の手法を用いて、日本人の思想と行動を説明する理論をつくった。偏見に満ちていたことは致し方ないにせよ、それが日本人の心理を学術的に分析した、はじめての画期的著作であることも事実だった。
 その著書では、西洋の「罪の文化」に対して、日本の「恥の文化」が対置されていた。「恥の文化」では、思想や行動が世間の評価によって決まる。つまり人が相対的な価値観をもち、善悪の意識はなく、他人によって左右されやすく、集団主義の傾向が強いというのだ。これとは西洋の価値観はこれと正反対の「罪の文化」にもとづいており、これが「恥の文化」の上に立っていることは、最初から前提されていた。
 国男の反論は、はたして日本の文化を「恥の文化」と言いきれるのか、というあたりから、おもむろにはじまる。

〈中古以来の文献はさらなり、私ほど年取った者の普通の見聞でも、日本人の大多数の者ほど「罪」という言葉を朝夕口にしていた民族は、西洋のキリスト教国にも少なかったろう。刑法制定のころからこの一語が特殊の響きをもち、他の会話には避けるようにもなったが、それでもツミつくりとかツミなことをするという文句は、いまですら日常の話題にもしばしば現れている〉

 日本人に善悪の意識がないなどというのは、まったく誤った判断であり、おそらく日本人ほど罪の意識にさいなまれている民族は少ないというのだ。ただし、それには仏教の影響が強いことも認めている。
 いわゆる「恥の文化」は民衆のあいだには、もともと存在せず、それは全体の1割に満たぬ武士階級にかぎられていた、と国男はいう。「恥を見るほどなら死ねといったたぐいの激しい訓戒が言葉どおり守られていたことも事実」だが、「恥を問題とするような機会にさえ恵まれなかった者が、多数あったことを見落としてはならぬ」というのは、そのことを指している。
 要するに、武士道ということが世界に喧伝されすぎていて、「多数の民衆の生活ぶり」が知られていなかった。その結果がたまたま『菊と刀』のような生真面目な著作にも反映されているのであって、日本を紹介する者は自分たちのそうした欠陥にも気づかねばならぬ、と国男は指摘している。
 日本語の問題は口語と文語のあいだに「かなりはっきりとした対立」があり、いわばタテマエとホンネの「意味のずれ」があることで、その点を承知しておかないと、タテマエだけで、民族の「文化の型」を説く結果におちいってしまうとも述べている。
 ここで、実例として挙げられるのが「義理」と「恩」ということばである。ベネディクトは日本人が自主的な判断ができず、いかに世間の道徳にしばられえいるかという象徴として、このことばをもちだした。
 これに対し国男は、義理はもともと「輸入語」で、「武士たるものの身のおこない」を示す意味合いで用いられたが、いまは「文語」としては用いられず、人が「誰でもすることだから自分もする」といった社交の慣例、あるいは仕方なしのつきあいといった程度にしか使われないと論じる。この義理ということばから、「古い文献と近ごろの用例とをつなぎ合わせて、数百年を一貫した文化の型を設定する」のは無理なのではないか、というのが国男の意見なのである。
 それは「恩」にしても同じで、このもともとインド伝来の思想を、上下関係を固定するために拡大しようとした「保守派の態度」がみられたのは事実だが、人びとはこれを借財と同じように「避けうべくんば避けよう」としたことを忘れてはならない。「恩を売る」とか「恩を着せる」というのは、もっとも低劣な態度を指しており、ほとんどだれもが、恩を売られないよう、恩を着せられないよう、日常の生活で身を律したのだった。
 こうして、国男はひとつひとつ具体例を挙げて、日本を「恥の文化」ときめつけるベネディクトの論拠をくずしていくのだが、ひとつ気になる表現があった。
 それは typical Japanese boredom と書かれ、翻訳では「日本人独特の倦怠」と表されている部分だった。
 これを国男は「倦怠」ではなく「あきらめのよさ」、つまりは「打撃に対する弱さ」なのではないかと理解した。そうすると、妙に腑に落ちるところがあった。

〈国を丸ごと破られたことは、幸か不幸か今度がはじめてだったが、[これまで]国内の個々の局面ではかぞえきれないほど、烈(はげ)しい勝敗の結果が見られた。決してお世辞でいうのではないが、今度の敵のような寛大なものは、同胞の間の戦争でももとはめずらしかった。……[日本という国は]結局は群としてまたは村として、いつまでも存続するということの、かなり困難な国であり、これがまたこんな老国であるにもかかわらず、いわゆる新陳代謝の盛んだった理由かとも思われる。敗者の歴史の伝わるのは、これも今回がおそらくはじめ[て]であろう。もとは点々として世に隠れ、たまたま命脈を保ちえたものでも、わずかな世代のうちに没落の悲しみを忘れてしまって、新たにまた尋常の生活をつづけるのである。遺伝の学問がもし大いに進んだならば、この循環にも法則があることがわかってくるかもしらぬが、ともかくも古く栄えた家筋などというものは、順ぐりに消えていって、もう一つだって残っておらず、跡にはまた代わりがちゃんと出来て、それぞれの苦闘をくり返している。限りある国土内の繁栄なるものは、いつも他の一方に今日のような、やや気の早い大勢順応を、条件としていたのではないか〉

 長々と引用したが、例によって、次々と縦横に連想がひろがり、最後にぽつんと結論が置かれる国男独特のスタイルがここでもみられる。それはそれとして、日本人の「あきらめのよさ」と、そのいっぽうでの「気の早い大勢順応」を嘆きながら、占領に複雑な思いをいだく国男の気分が、この一節にはよくあらわれている。
 だが、国男は「隠者」になるつもりはなかった。自分には学者としてまだまだやるべきことが残っていると思っていたのである。

〈判断は個人のもの、それを少しでも安全にかつ自由にするには、証拠のある確かな事実を、できるだけ豊かに供与しておくよりほかはない。これに付け加えてもし自分にも言ってみたいことがあれば、これだからこう思うという筋道を明示して、たちまち誤った推理法の発覚するようなかたちにしておけばよい。これがお互い実証の学に携わる者の、進むべき道であると思う〉

 民族学(文化人類学)や民俗学のような、いってみれば妖しい分野の学問には、こうしたカール・ポッパー流の検証が欠かせなかった。その意味では『菊と刀』には大きな資料的欠陥がある。だが、いっぽうで国男は、拙速かもしれないが大胆かつ緻密な仮説を打ち出したベネディクトの仕事を「世界の公人らしい堂々たる用意であった」と高く評価していたのである。

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