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ノーマン、ベネットらと [柳田国男の昭和]

《連載166回》
 戦後処理の過程で、ソ連を中心とする社会主義勢力が伸張し、アジアでもそうした気配が濃厚になるにつれて、アメリカが対日占領政策を大転換し、改革より復興をかかげるようになったことは前にも述べた。ケネス・ロイヤル米陸軍長官は、日本を「共産主義の進出を押しとどめる防波堤」にすると言いはなっていたが、まさにアメリカはその方向で、日本を改造しなおそうとしたのである。
 1949年(昭和24)2月には、デトロイトの銀行家、ジョゼフ・ロッジが来日し、「経済安定」に向けて、大長刀をふるった。(1)一般会計と特別会計を含む総予算の均衡(2)補助金の全廃(3)インフレの根絶──がその改革の骨子で、4月23日からは1ドル=360円の固定為替レートが実施された。
 いわゆる「ドッジ・ライン」がめざしたのは、経済学者の中村隆英にいわせれば、「[戦時の経済統制以来]社会主義国の国営企業に近いものに変質しつつあった」日本の企業を、自由経済の競争のなかに引き戻し、鍛えなおすことだったという。とはいえ、ドッジの経済政策によって、日本は深刻な不況におちいり、「朝鮮戦争によって事態が一変しなかったならば、日本の景気はさらに深刻な不況に陥ったことは想像にかたくない」という状況までおちいったのである。
 それまで国営だった鉄道、電信電話、たばこ、塩なども、この時期に公営化され、日本国有鉄道、日本電信電話公社、日本専売公社が発足する。
 国鉄では大量の人員整理が実施され、それにともない奇怪な事件が次々と発生する。7月5日には、常磐線の北千住・綾瀬間の線路上で下山定則・初代国鉄総裁が轢死体で発見される下山事件が起きた。7月15日にも中央線三鷹駅で無人列車が暴走する三鷹事件、8月17日には東北本線の松川(現福島市)で線路がはずされ列車が転覆する松川事件が相次いで発生した。こうした事件を背景に、世論は共産党や労働組合に対する非難を高めていった。
 事件の真相はいまだにわからないが、客観的状況からみて、アメリカの陰謀が見え隠れするのはいたしかたない。それまで日本の占領改革を推し進めてきた連合国総司令部(GHQ)の民政局はすでに力を失い、反共工作をおこなう参謀第2部(G2)が占領政策の中心を担うようになっていた。
 駐日カナダ代表部主席のE・H(エドガートン・ハーバート・ノーマン)が柳田国男のもとを訪れたのは、第3次吉田内閣が発足する前日の2月15日のことである。年譜によると、このときノーマンとは『金枝篇』で名高いフレーザーについて話しあったというが、その詳しい内容はわからない。
 ノーマンは宣教師の息子として軽井沢に生まれ、15歳まで日本で育った。その後、カナダ外務省に勤務するが、戦後GHQに出向し、マッカーサーのスタッフとして、昭和天皇との会見で通訳も務めている。
 1950年(昭和25)に『忘れられた思想家 安藤昌益のこと』を出版して、日本でも広く知られるようになった。ところが、その7年後、アメリカで吹き荒れたマッカーシーの赤狩り旋風に巻きこまれ、エジプト・カナダ大使時代にカイロで謎の投身自殺を遂げる。ソ連のスパイ説はほんとうだろうか。いずれにせよ、ノーマン自身、日本滞在時代からすでにアメリカの右旋回をひしひしと感じていたことはまちがいないだろう。
 また『柳田国男伝』の年譜によると、1948年3月26日には、米軍民間情報教育局のベネットとパッシンが民俗学研究所を訪れ、ベネディクトの『菊と刀』を中心に、国男と神道の話をした、とある。米軍民間情報教育局は正確にはGHQ民間情報教育局(CIE)。ベネットはジョン・W・ベネット、パッシンはハーバート・パッシンのことである。
 ベネットはのちにウィスコン大学などで社会人類学教授となった。当時はCIEの社会調査部長を務めていた。パッシンはCIEの世論・社会学研究部長を務め、コロンビア大学社会学部教授となった。国男のもとを訪れたときは、ふたりとも30代前半である。
 パッシンが柳田邸を訪れたのは、戦後まもなくのことだったという。
 初訪問の当日、京都から丹波地方や民具の研究で知られる、高校教師の礒貝勇(渋沢敬三のアチック・ミューゼアムの同人でもあった)が、成城の柳田邸を訪れており、そのときの見聞をのちに『定本 柳田国男集』の「月報」16に記している。
 少し長くなるが、紹介しておきたい。

〈[戦後まもなく、久しぶりに上京して]よもやまのお話をうかがっていたら、来客らしく玄関のベルが鳴った。お手伝いさんが名刺をもって、進駐軍の将校らしい方が二人、先生にお目にかかりたいと訪ねてきたことをつげた。先生はその名刺を見られて「日本語で話すことができるのだったら、お会いしてもいい。もし英語でしか話ができないのだったら、失礼をしたい。くたびれるから」と答えられた。お手伝いさんが玄関にもどると、すぐ二人の米軍将校が書斎にはいってきた。その一人がハーバート・パシン[パッシン]氏で、も一人は二世軍人であった。パシン氏は、先生の前にくるとすぐ、ていねいな、しかも流暢な日本語で、初対面のあいさつをしたのが印象に残った〉

 パッシンは熱心に質問し、国男もていねいに答えたようだ。
 礒貝の記憶ではこう記されている。

〈彼[パッシン]は、先生への質問として用意してきたらしく、日本における文化圏の問題をとりあげて、日本に文化圏というべきものがあるかどうかについて、先生のお考えをうけたまわりたいと質問した。このとき先生は、不十分な現在の調査資料では、地域的に文化圏を設定するということはできない。ある一つの文化的要素から、四国とか、九州とか、あるいは東北地方とかに、地域的な特徴を指摘することは、あるいはできる場合があるとしても、これがただちに日本文化全体の地域性ということにはなりえない、という意味のお答えであったように記憶している〉

 世論調査の専門家として、パッシンは日本にどのような文化圏があるかを国男に問うたのだろう。これに対し、国男は「日本の社会を公式的な見方で、誤って見てくれてはこまる」ということを、諄々と語ったのである。
 1948年にいたるまで、パッシンやベネットはおそらく何度も民俗学研究所のある柳田邸を訪れている。たぶんE・H・ノーマンも同じだろう。だが、「敗北を抱きしめる」時代は、徐々に終わりかけていた。

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krause

じっくりと読ませていただきました、大変勉強になりました。
by krause (2010-10-25 07:40) 

だいだらぼっち

ありがとうございます。こちらこそ、krauseさんのブログを読んで、いつも勉強させていただいております。ぼくの話は果てしなくて、いったいどこに行くのやらという感じですが、よろしければまたお立ち寄りください。
by だいだらぼっち (2010-11-07 17:21) 

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